令和7年7月分 金剛寺住職法話
【金剛寺住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に】
毎月1日の法話は、SNSを扱えない人達(檀家のご老人など)の為に、コピーしてお配りしているものです。中には、会社の社長さんも何人かですが、この1日法話をコピーして社員さん達に配布されている会社も。そうした意味から、少々長文になっておりますので、鬱陶しいと思われる読者は、無視して下さいませ。
【はじめに】
7月の施餓鬼盆月、8月の盂蘭盆月、9月の秋彼岸月になると、檀家の子供達から「仏壇に線香と蠟燭(ロウソク)をお供えするは、何か意味があるの」と問われる事が。対し、拙僧「色々あるが、1つには、線香も蝋燭も第三者の手を借りないと、火が着く事はないだろ。1度火が付いたら自然と無くなるまで、自ら消す事は出来ないだろ。その間、自らの身を削りながら、周囲を明るく灯しつつ、周囲に香の香り(癒し)を漂わせつつ、その役目を終えていく。蝋燭(ロウソク)と線香を仏壇にお供えするは「君は、そんな一生を過ごしているかい」と自分自身に問い掛ける為だよ」と。
【本文】
令和 7 年 7 月分 金剛寺住職短文法話集
金剛寺ブログ :https://blog.goo.ne.jp/junko-0808
金剛寺ツイッター :https://twitter.com/kongouji093
金剛寺フェイスブック:https://www.facebook.com/天徳山-金剛寺-1543297575974719/
金剛寺インスタグラム:https://www.instagram.com/tentokuzan_kongouji/?
暑中お見舞い申し上げます。これより先は、厳しい時節が続きますので、読者の皆様方におかれましては、熱中症に気を付けられて、どうぞ、お身体の方、ご自愛下さいませ。
もうかれこれ1年程になりますかね。出勤前の毎朝6時頃、わが寺へ朝の散歩がてら、参拝に来られる近所の40代の男性(檀家さんではない)がおられまして。数日前のこと、彼に拙僧「あなたは、大阪出張が多いようですが、万博へは行く予定はあるんですか」と尋ねると「行く予定はありませんね。興味がないからですね」と。「ほう、例えばですね、お年寄りの人達が『1日の時間が経つが早い。1年が経つが早い』と、よく言われてるでしょ。でも、1年は1年、1日は1日、24時間は24時間、老人も子供も変わりはないですよね。なのに、何故、時間の遅い、早いを感じるのか、それは、好奇心を持つか、持たないか、だけですよ。人間は知っている事よりも、知らない事の方が圧倒的に多い。お年寄りが時間の流れを早く感じるは、長い間の経験から『こういう行動を取ったら、この先、こういう風になるのに』と結果が予想出来るから、行動よりも心の方が先に、そこへ飛んじゃうからなんだよ。知らない事に好奇心を持てば、時間の流れも多少は変わると思うよ」と。
すると、その40代男性が「じゃ、そうですね、時間があれば、万博に行ってみましょうかね」と。対し、拙僧「時間があれば、なんて事を言ってたら、恐らく行かないよ。時間は、作るもんだよ」と。「じゃ、時間を作ります。だけどさ、住職、相変わらず、大阪万博に文句を言ってる人が多いですよね」と。「文句を言ってる人達は、万博に行ってない人達じゃないかな。『講釈言い、文句言いは、動かんと相場が決まっとる。動かん人間に限って、文句を言いよる』と言うからね。1889年に開催された第4回パリ万博の時、エッフェル塔が建設されたんだが『パリの景観が崩れる』と言って、モーパッサン他、大勢の人が大反対をされたんだと。だが、モーパッサン(自然主義の小説家)は万博後『ここが、パリで唯一、この塔を見らずに済む場所』と言って、度々、エッフェル塔(建設期間2年2ヶ月、高さ324メートル)内のレストランへ、足を運んだそうな」と。
続けて、拙僧「でも、本当にそうかいな。足を運んでいる内に、その良さがわかってきた、が、本当のところじゃないのかな。口には出さなかっただけで。本当に嫌だったら、見るのも嫌だったら、背を向けていれば済む事にて。そんなに度々、塔に向かっては行かないでしょ。行く着くまでにどうしても、エッフェル塔は目に入ってくるんだからね」と。因みに、東京タワー(333メートル)は、エッフェル塔建設の70年後、1958年に対抗して建設されたと言われていますが、この『対抗して』というは、どうも違うそうですね。
続けて、拙僧「昨今は、経験もしてないのに、自分の持ってる知識と感覚だけで文句を言ったり、SNSの情報を鵜呑みにして、勝手に決め付けて、全く知らない人を寄って集って追い込んだり、と。『ネット(本)の中だけで、生きてんじゃねえよ人間』や、経験なき知識人『唯の物知りさん』が一定数、この国には存在しておりますもんな。万博に対して文句を言いたい人間は、まずは、万博に足を運ばなきゃ。何が気に食わんのか、目で見て、耳で聞いて確かめないと、文句の言い様もないじゃろうに。第三者の評価(その人の個人的な意見)を借りて、(鵜呑みにして)文句、批評を言わず、まずは、自分で確かめに行ってみる事ですな。諺に『馬には乗ってみよ、人には添うてみよ』という言葉も。何でもがそうだが、否定から入ったら、得るもんはなかですばい。揚げ足を取るような事ばかりをせず、どんな物にも必ず良いところ(自分にとって益になるところ)があるから、それを自分の人生の参考にしなきゃ、ですな。どげんよ、行く気になったかいな」と拙僧、この40代男性に。
更に、拙僧「日本で初めて開催された万博は、昭和45年(1970年)に大阪で開催されたものだが、当時、拙僧は8歳、残念ながら生活にゆとりがなく、行けてないんだよね。77ヶ国が参加した万博で、入場者は6400万人以上だったと。この万博で広がったものといえば『歩く歩道、エアードム、モノレール、電気自動車、自転車、電波時計、温水洗浄機付き便座、ビデオテープレコーダー、缶コーヒー、ファストフード、ブルガリアヨーグルト、インスタント食品、レトルト食品、チーズ、ワイン』などなど。さて、この度の万博は、何が後世に残るのかな。こんな唄がある。『踊る阿呆(アホ)に見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃ損損』と。同じ阿呆(あほ)なら、行って、見て、聞いてこにゃ、損損と。という事で、この度は拙僧も、万博には行こうと思ってるよ。何せ、自分の目で耳で味合わなきゃ、法話のネタにもならないしね」と、この40代男性に。
【臨時法話】
数週間前ですが、結婚に躊躇している、という檀家30代男性の話を1時間程聞きました。その話を聞きながら、以前(数年前)、法話の読者が胸の内を淡々と述べてきた話を思い出し、その話を拙僧、この檀家30代の男性に話をしました。彼に「その読者男性は拙僧に『吉本興業の坂田利夫さんが、生涯結婚をしない、と決めた理由は、自分が、アホ、と言われるは構わない。が、わが子が、アホの子供、と言われるは、可哀想過ぎるから、と言われてました。親の因果が子に報う、という言葉がありますが、私は就職の時にも、結婚の時にも、この親の子供か、が理由で駄目になりました。今は情報を得ようと思えば、結構簡単に手に入る時代ですもんね。それが犯罪ともなれば、尚の事ですよね。が、捨てる神あれば、拾う神ありで、親は親、子は子、と判断してくれる人との縁が幸運にも貰え、就職も、結婚も、ご縁が。腐らず、真面目にやっておれば、きっと誰かが見てくれている、と信じて。私は、運も良かったと思います』と、その様に拙僧法話の読者の男性が言ってたよ」と。
続けて拙僧、その檀家30代男性に「君と少しだけ境遇が似てるだろ。他にも事情はそれぞれ違うが、気の毒な家庭環境の中で生活している子供が、檀家の中には今現在においても、何家かある。嘗ては、その気の毒な環境を乗り越えられた者も、乗り越えられなかった者も。乗り越えていった人達は皆、葛藤しながらも、自分で切り開いていったかな。挫けそうな時には拙僧のところに来て、鬱憤(うっぷん)をぶちまけていたが。黙って聞く事ぐらいなら拙僧にも出来るから、遠慮せずにお寺においで」「有難うございます」と、この男性が。
【病気】
石橋貴明さんが、初期の食道癌、咽頭癌との事。酒と煙草が、その要因の1つと言われているが。よって、その病気の多くは男性との事。煙草は膀胱癌のリスクも高いとの事ですもんね。拙僧の従兄弟は、ヘビースモーカーで、血尿が出て検査に。その段階で、寿命4日との診断を。その診断から1年後、50歳で他界を。が、この従兄弟は、日本債券信用銀行破綻で10年間、他の銀行に身を置きながら、その後処理(あとしょり)を。その間、まともな食事も取らず、ストレスで過度の酒と煙草を。膀胱癌、煙草、酒と言えば、脳裏に松田優作さんが。病気は口から入るので、口養生が出来ないは、やはり大きなリスクが。拙僧の従兄弟(いとこ)においては、銀行の破綻処理の過度の心身負担が、体を蝕む大きな要因となったのでは、と思うが。
これは余談ですが、石橋貴明さんといえば、以前、大御所芸人(笑福亭鶴瓶)が若手の芸人に「ロケバスの中で寝るな。とんねるずも、ダウンタウンも、うんなんも、ロケバスの中で寝ている姿を見た事がない。その連中は皆、外を見たり、バス内での会話したりで、新たな情報を吸収していたぞ。時間を無駄にしている者に、成功した奴はいない」と。この事は拙僧も、若手の僧侶に、同じ様な事を言ってるかな。
令和 7 年 7 月分 金剛寺住職 臨時法話
先日、、檀家の家へ仏壇参りに伺うと、夫婦位牌(めおといはい)と夫婦骨壷(粉砕機で粉にして、夫婦一緒に1つの骨壷に)の話になりました。昨今は、この夫婦位牌と夫婦壺、これを望まれるご主人達が、ちらほらと出てきましたね、拙僧の法話の影響かいな。ところが、この話になると、どの家庭においても奥さんが「どうして死んでまで、こん人と一緒におらにゃならんの。真っ平ごめん被るわ」と。まあ、本心かどうかは別にして、一応、拒否反応をされます。いやはや、ご主人さん達、今日までにいったい何を仕出かしてきたんでしょうな。まだ、取り返しの効きそうなご主人さん達は、急いで挽回をしなきゃ、残された時間は、結構に短かかですばい。
さて、そんなこんなで、この話が盛り上がっていた時、この家の40代の奥さんが「住職さん、1つお願いが」と切り出してきた。対し「何ですかいな」と拙僧。「別に、主人が嫌いだとか、主人の家の納骨場所(わが寺の納骨堂)に入りたくないとか、そういう訳じゃないのですが、もし、もしですよ、私の方が主人よりも先に旅立った時には、少しの間でいいですから、実家の父と母が眠る、実家の納骨場所に入れてもらうっていう、わがままは可能ですか」と。対し、拙僧「それは、勿論、可能だよ」と答えた後、ご主人の方に目を向けると「この人(家内)は、前からそれを望んでいて。まあ、どっちが先に逝くかはわかりませんけどね。仮に、私が先に逝ったとしても、その望みは叶えてあげたいかな。ただ、その時は期限を決めて、私の方(嫁ぎ先の納骨場所)に帰ってきてもらいたいですが。同じ屋根(納骨堂)の下とはいえ、住む部屋が違ったら、やっぱ、寂しいですもんね」と。対し拙僧「了解しました。奥さんが先に旅立たれた場合は、そうしましょうね。ご主人が先に立たれた場合は、奥さんが後から追っかけていく事になるが、その場合でも、少しの間は、実家の納骨場所に父上と母上と共に、親子水入らずで奥さんを入れてあげようかね」「有難うございます。これで安心しました」と。
続けて、拙僧「この件、了解しました、とは言いましたが、年齢的に拙僧の方があなた達夫婦より、10歳以上も年上だから『よし、心得た、任せい』と責任を持って胸を叩く事が出来ないので、その事を後継する息子達に言っておきますよ。その息子達が万が一、その事を忘れていたらいかんので、君らの家の過去帳に、その旨の事を書き記しておくからね。人が亡くなれば、戒名を記す為に必ず、過去帳を開くから、決して忘れる事はないですから。過去帳ってね、その家の人が他界された時の重要事が書き記してあるから、結構に面白いんだよ。所謂、過去帳は『〇〇家のメモ帳』というところかな。その家の資料にもなるんだよね。ところで、奥さん、あなたのその要望ってね、あなただけが言ってきた事じゃないんだよ。偶に、頼まれる事がある。あの世に逝ったからとて、親子だもんね。そりゃ、遺骨になっても甘えたいだろうし、親元というは、落ち着けるわな」と。
最後に、拙僧「生まれ里と嫁ぎ先が、同じ納骨堂でよかったね」と言うと、ご主人が思い出したかの様に拙僧に「あっ、住職、1つ大事な事を言い忘れてました」と。「なによ」と聞き返すと「私が先でも、家内が先でも、2人共が旅立った時点で、2人の遺骨を一緒に粉砕機に掛けて粉にして、1つの骨壷に納めていただけませんか。以前、住職の法話でこの話を聞いた時『これだ。これがよか、これしかない』と、その時点で決めておりましたので」と。対し、拙僧「うん、うん、いいよ、了解しました。過去帳にその旨の事も、一緒に書き添えておきますね。だけど、あなた達はまだ、40代なのに、この話はちいと、早うございませんかいな」と返すと「何言ってんですか。住職は法話の中で度々『明日の命を約束されている人間は、誰1人もいない。自分だけは死なんと思うとりゃせんか』と言ってるじゃないですか」「おっ、おっ、そうじゃった、そうじゃった」と。
【余談】
この話は余談になりますが、先日、ある50代の読者の男性から、拙僧にこの様な問い掛けが。彼曰く「わが家の菩提寺(代々の先祖を供養、葬式をしてくれる寺院)の他に、父(80代)は、長年お世話になった他宗のお寺がありまして。その寺院のご住職に父は『戒名を付けてもらいたい。菩提寺は〇〇宗だけど、どうしても〇〇宗の〇〇上人さんとのご縁を結んで、この世を去りたい』という思いを持っておりまして。これって、菩提寺との間で、何か問題がありそうなんですが。どうですかね、住職(拙僧)さん」と。対し、拙僧「他宗寺院のご住職に授けてもらった戒名でも、快く受け入れてくれるご住職(菩提寺)も中にはおられますが、大抵は難しいでしょうな。各々の寺院には、各々の規定(使用する漢字、料金)というものがありますからね。お父上が『どうしても』と望まれるのなら、菩提寺では、菩提寺のご住職に授けてもらった戒名で供養していただいて、そのお世話になった他宗寺院においては、その寺院のご住職に戒名を授けてもらい、その戒名で永代に、そのご縁のあった寺院で供養して貰えばどうですかね。」と。対し、その息子さんが「戒名が2つあるっていうのは、問題ないのですか」と。「歴史の中では、複数の戒名持ちは、結構におられるんだよ。その寺院、その寺院、とのご縁が、個人的にある人がおられるからね。問題はないですよ」と。この拙僧の進言に対し、50代息子さんが「そうですか。じゃ、もう1つ、いいですか。その場合、これからの子孫は、どの寺院を重視(授かった戒名)すればいいのですか」と。「そりゃ、当然、菩提寺です。他宗寺院はあくまでも、その他宗寺院と故人本人さんとの関係(ご縁)ですので。その縁あった他宗寺院で未来永劫、供養をしてもらいたいという、故人本人の思いを子孫が受け入れた、というだけの話です」「なるほど、よくわかりました」と。
【わが寺の閻魔地蔵盆法要】
今月の7月20日は10時半より、わが寺では閻魔大王(地蔵菩薩の化身)の法要(施餓鬼地蔵盆)が執り行われます。この法要においては、参拝してくる子供達から「住職さん、閻魔大王さんって、本当にいるの」との質問が、毎年の様に向けられてきます。対し、拙僧「知らんがな、死んだ事がないし、会った事もないから。だけど、本当にいたら、どうするよ。死んで、あの世に逝った時、閻魔さんが本当にいたら、そん時はもう間に合わんぞ。だから、閻魔さんが本当にいても慌てない様に、この世で生きている内に、爺ちゃん、婆ちゃん、親を大事にしときな。何万年もの間、1つの命をバトンタッチの様に繋いでくれたご先祖さん達に、感謝しときな。友達や世間の人達も大事にしな。嘘や悪口、いじめや、盗みなど、そんな事はやめときな。そしたら堂々と、閻魔さんに会う事が出来るじゃろ」と。更に、子供達に「地蔵とは『地』に『蔵』と書くだろ。昔、宝物は『蔵』という建物に入れてたんだよ。大地の下には、水、油、人間以外にも、生物を育む様々な養分も。つまり、大地の下は宝だらけ、という事。そこで『地』に『蔵』と書いて『地蔵』という信仰が生まれたんだよ。その大地が全て『地蔵』なら、地蔵の化身である『閻魔大王』に、人間は皆、全てを見られとる、という事になる。よって、閻魔に嘘は通じん、という事になるんだよな。まあ、これが本当かどうかは知らんが、試しに悪い事ばかりやって死んでごらん。あの世に逝けば、わかる事だから。この世でも嘘は必ず露見するし、悪い事をしたら罰せられるだろ。人間は、自分がした事、やった事は、必ず背負わにゃならん。あの世でも続きがあるんじゃないのかな。死んだからとて、自分のやらかしてきた事が、チャラになる、とは到底思えないけどな。そこんとこ、どう思うや」と檀家の子供達に。この方便は、結構、子供達には効き目がある様で、これまでの態度を改める子供も少なからず。ただ、最も面白い光景は、この話しを横でコソッと聞いている大人達かな。身に覚えがあるのか、その時(閻魔さんとのご対面)が近いからなのか、わが寺の閻魔さんの顔を、まともに見れなくなる様で。身に覚えがあるなら、まだ間に合うから、これまでの生き方を懺悔して、改善すればいいだけなのにね。人間は死ぬまで、生きとかにゃならん。死ぬまで人間は、どうとでも改善が出来るからね。
これは余談ですが、85歳を過ぎたご老人達から度々「住職、眠る様に死にたい。その様に祈願してくれんか」と頼まれる事が。対し拙僧「その事を口に出して言ってる人が、眠る様に旅立っている人が多い様に思えるよ。高杉晋作さんが『夢は大きな声で言って回れ。誰かが聞いてくれている』と。神仏や先祖の耳に入って、その願いを叶えてくれてるのかもよ。この度の閻魔地蔵盆の短冊に『眠る様に旅立てます様に』という思いで『安眠成就』と書いて祈願しなっせ。願いは持たないと、叶う事はないでっせ」と、その檀家のご老人達に。
次回の投稿法話は、7月5日になります。
0コメント