令和7年11月分 金剛寺住職法話
【金剛寺住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に】
毎月1日の法話は、SNSを扱えない人達(檀家のご老人など)の為に、コピーしてお配りしているものです。中には、会社の社長さんも何人かですが、この1日法話をコピーして社員さん達に配布されている会社も。そうした意味から、少々長文になっておりますので、鬱陶しいと思われる読者は、無視して下さいませ。
【はじめに】
新約聖書の中に、こんな話があります。麦の苗を植えたその夜、敵が忍び込み、独麦の苗を植えた。少し実った時に、それが発覚。家臣が「抜きます」と進言すると、王様が「借り入れの時期まで待て。あまり早く選別すると、良い麦まで抜く事になる」と。人材づくりも、これに同じかな。時間に判断を委ねる事も、時には必要かな。しばらくは黙って、高市さんの手腕を見届けましょう。
令和 7 年 11 月分 金剛寺住職短文法話集
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【本文】
読者女性が「以前の法話でご住職(拙僧の事)が、こんな話を。キリスト教の教会の前で立ち止まり、手を合わせて頭を下げていると、通り掛かった老女から『何故、お坊様がキリスト教に礼拝しているの』と問われた事があったと。対し、ご住職が『住んでるマンションの入り口で人とすれ違ったら、知らない人であっても、同じマンションの住人かな、と思ったら挨拶をするでしょ。それと同じ事ですよ』と、その老女に答えたと。この法話を目にした時『宗論はどちらが勝っても(負けても)、釈迦の恥』という言葉を思い出しました。こんな考え方を皆がすれば、宗教戦争なんて起こらないのに、と思いました」と。
続けて、この読者女性が「ところでご住職は、キリスト教の事をどのくらい知っておられますか」と。対し拙僧「キリスト教の事は、あまり深くは。マザーテレサさんが、1982年に講演をされた東京九段にある暁星学園の同じ聖堂で拙僧、有難い事に講演をさせてもらった事が。キリスト教系の学校の聖堂なので『背広で伺いましょうか』と気を遣ったところ『法衣で講演される事に意味がありますので、どうぞ、法衣でお越しくださいませ』と。カトリック教会の修道女にして聖人のマザーテレサさんについては、本を読んでほんの少しだけ知っておりますが、マザーテレサさんが残された教訓の中で、最も心に残っているは、次の言葉ですかね」と。
『思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから』と。
「拙僧も檀家さん達には『心の中にないものは、口から出てくる事はない。心の中にあるものしか、口からは出てこない。人の悪口や誹謗中傷、不平不満など、あまり言い過ぎると、私はこんな人間である、と自らの口で自らの人間性を、世間に向かって暴露してるに同じだよ。つまり、天に向かって唾を吐くがごとし、だよ』と。特に、子供達、若者達には、この事はしっかり話をしておりますね。時代がその傾向だからね」と。
最後に、この読者女性が「この度、高市早苗さんが自民党総裁になりましたね。住職はどう感じておられますか」と。対し、拙僧「日本では、女性で初めての総裁ですもんな。ヨーロッパ及び先進国史上初の女性首相であり、サッチャリズムにおける新自由主義等、その思想信条への一貫性を貫く一見強硬な政治姿勢から「鉄の女(Iron Lady)」の異名を持った、マーガレット•サッチャーさんを思い出しましたよ。サッチャーさんくらい剛腕を振るってくれたら、日本も面白い事になるよな、と思いますけどね。人というは大なり小なり、自分にとって都合が良いか悪いかで、善悪(是非)の判断をするもの。政治の仕事は人の欲を相手の仕事にて、なかなかに難しいですよね。たった5人の家族でさえ、自分の言い分をゴリ押しして、そう簡単にはまとまらないでしょ。政治はシーソーの様なものですもんな。どちらかが上がれば、どちらかが下がる。皆が皆、納得出来る様な政策など、絶対に打ち出せるはずがない。政治家の仕事は、このシーソーのバランスを上手にとる事かな。高市さんがどの様に、このバランスをとっていかれるのか、これからが、非常に楽しみですね」と。
檀家の30代男性が「住職さん、僕は絶対に娘を結婚はさせない。何処の馬の骨とも分からん奴に、娘を奪われるかと思ったら、我慢がならん」と未来予想の段階で憤慨を。対し拙僧「確か、君の娘さんって、まだ8歳だったよな」「そうですよ」「だけど、君はそんな事を言ってるが、君も義父の娘さん(この男性の妻)を、義父から奪い取っていった側の人間だよな。人様の娘さんを奪っておきながら、自分の娘は奪われたくないとは、そりゃ、どういう事やねん。さっぱり意味が分からん。義父からしてみたら君も、当時は『何処ぞの馬の骨』だったんじゃないのかい」と返すと、口を詰まらせながら「そ、そりゃ、そうですが。だけど、住職さんにも娘さんがおられるでしょ。私の気持ちがわかりそうなもんじゃないですか。住職さんの娘さんは、もう結婚されて子供さんもおられますが、相手の男性(拙僧娘の旦那)が『娘さんを私に下さい』と挨拶に来た時、何とも思われなかったんですか」と必死に。対し拙僧「何とも思わなかったよ。私ら(拙僧夫婦)なりに厳しく育てた娘が『この人なら』と選んだきた相手だろ。という事は、拙僧が選んできたのと同じ事だよ。だから、反対するなんていう選択肢は、全くなかったかな」と、この檀家男性に返答を。
続けて拙僧、この檀家30代男性に「ただ、1つだけ言わせてもらうなら、嫁がせたその先は、実家にいる時の様には娘を守ってやる事は出来ないからね、抑止力として『この親父(拙僧)は、怒らせたら怖い』という印象を娘の相手の男性には、与えておかにゃならんかな、とは思ってたよ」と。「えっ、どういう意味ですか」「ちょうどコロナの真っ只中だったもんで、東京と北九州でリモートによる顔見せとなったんだが、初顔合わせでの感想は『何という、優しそうな男性かいな。礼儀正しく、上品で、穏やかで、何の文句もないわ』と。だが『いやいや、抑止力だ』と心に鬼1匹を宿して、娘の旦那となるだろう、その男性に第一声目で『君な、猫の子をやる訳じゃないからな』とドスの効いた声色で。リモート対面が終わった後、家内から『何という事を言うの』と、どえらく怒られてしまったが。娘からは『お父さん(拙僧)、あれから私の彼氏、猫、猫、猫、とずっと呟いてるわよ。随分落ち込んでたんだよ』と、少々叱り口調で」と。すると、この檀家男性が「住職、その言葉は、流石に怖いわ」と。「まあ、これは余談だが、拙僧の後輩住職なんかは、拙僧と同じく、娘さんが連れてきた相手を見て『申し分ない。爽やかな、良か青年だ』と気に入ったそうなんだが『いや、即、了承はあかん。心に思ってなくとも、1度は跳ね付けなきゃ』と心を鬼にして、後輩住職はその男性に『まあ、私が如何に反対しようと、君らは結婚するんだろうが、ただ1つ、夫婦喧嘩の事なんだが、夫婦、家庭が向上していくものなら、なんぼやっても構わん。が、もし、1度でも娘に手を挙げたら、その時は、この世に生まれてきた事を後悔さすぞ。私は生まれた時から、坊主をやってた訳じゃないからな』と言ったそうだよ。その後、拙僧と同じくこの後輩住職も、奥さんから『何という事を』と、しこたま怒られたそうだが」と。「お坊さんって、なんか、怖いですね」と。「娘を思う気持ちは、お坊さんでも、君らと一緒だよ。
続けて、この檀家男性が「ところで、住職(拙僧)さんは今、娘さんの旦那さんとは、どんな(関係性)具合ですか」と。「極々普通だよ。娘が旦那さんに『お父さんが大きな声を出して怒鳴る姿など見た事ないし、お父さんとお母さんが大声を張り上げて、喧嘩をしているを見た事もないよ。そもそも両親が喧嘩しているを見た事がない。基本、凄く穏やかで優しいから、大丈夫だよ』と助言してくれた様で、じわじわと拙僧に対する印象も変わっていったみたいで。まだ、遠慮はしているみたいだけど。結婚してからは、偶に娘の方に『許してくれる人(娘の旦那)がいるから、物事がスムーズに流れているを忘れちゃならんよ』とその様に。娘の旦那には『わがままも度を過ぎ出したら、少しは怒らんとあかんぞ』と。まあ、何にせよ、娘の『男性を見る目』は正しかったかな。君はその8歳の娘さんが、素晴らしい男性を選んでくる様な女性に育てあげる事だな。君の言葉を聞いてると『私の娘は、何処ぞの馬の骨を選んでくる恐れがある』と言ってる様にしか聞こえん。娘さんに対しても大変失礼な言葉だし、将来かなり高い確率で嫁がせる時に、娘さんとの間で揉める事になりゃせんかな。何にしてもそうだが、否定から入ったら、得るもんはないよ」と。
令和 7 年 11 月分 金剛寺住職 臨時法話
わが寺には、檀家さんの中に大変仲の良いご夫婦がいて、このご夫婦は、典型的な蚤(ノミ)の夫婦(旦那が小さく、奥さんが大きい)でして。ある時、旦那さんが「住職さん、家内が水虫になりまして。あの様に太っている為、お腹が出ているもんだから、自分で足の指に薬を塗る事が出来ず、私が塗ってあげる事になったんですが、ご存知の通り、私は筋金入りの潔癖症でして、顔には出しませんが、申し訳ないのですが、心の中では拒否反応をしながら薬を塗ってあげました。私の手に水虫が感染しないか、と心配しながら」と。
対し、この旦那さんに「拙僧も以前、家内が水虫らしきものになった時、素手(指)で塗ってあげたよ。その時、家内が『パパ(拙僧)の指に感染しないかしら』と心配そうに。対し、拙僧『塗ってる薬は、水虫の薬なんだろ。という事は、手の指に水虫の薬が付いてる訳でしょ。もしそれで感染したら、その薬、効き目がないという事になるでしょ』と笑いながら言うと、家内が『まあ、理屈はそうなんだけど』と。まあ、そんな事があったかな。なあ、旦那さんよ。あなたがどうしても気になるなら、綿棒を使えばいいじゃん。本来なら、その方が間違いなく衛生的な処置だと思うから」「そうですか、んんっ、綿棒ですか。・・・、何か、非常に複雑な気持ちなんですが」「だろうね、塗ってあげるは、愛する奥さんだもんね」と拙僧、この旦那さんに。
最後に拙僧、この旦那さんに「何度でも言いますが「天から貰った最高のプレゼントは、わが女房殿」ですもんね。両親が仲睦まじく、労り合って、助け合って、尊敬し合って、生きている姿を見て育った子供は間違いはない。女房殿(家内、妻、伴侶)は、何でも話せる大親友にて。大親友なら、大事にせにゃ、あかんでしょ。それと、これは言い添えますが、あなたの潔癖症は、今日までに身に付いた情報による潔癖症でしょ。新たな情報が入る度に、どんどんエスカレートしていくだけだよ。もうこれ以上、潔癖が増していく様な情報(ピコピコスマホ)を、頭に入れるのは控えた方がいいかもね。人間は細菌と共存して生きてるんだから、ある程度は折り合わなきゃ。抗菌剤を使い過ぎたら、耐性菌まで殺してしまい、悪い菌が増殖して、かえって身体(環境)に悪いがな。外国の事例で、天敵の狼を排除したが為に、鹿に森林を荒らされ、洪水になった事例や、鹿が増え過ぎ、食べる草がなくなって、大半が餓死した事例とか。また、自然環境を人間が自分達の都合の良い様に変えた事で、天敵である大型の鳥がいなくなり、街中でスズメバチが繁殖し、人が襲われるという流れも。そりゃ、必要な時は、殺菌剤も抗菌剤も使わにゃならんが、いき過ぎた使い方は、自然界の歯車を狂わせ、その中で生きている人間にも、悪影響を及ぼし兼ねない。いき過ぎは、少し考えようね」と拙僧、この旦那に。
【追伸】
檀家若者(女性)が「住職さん、インチキも100年続いたら、本物みたいになるよね」と。対し拙僧「えらい唐突だね。何か、あったんかい」と返すと「正月番組で、紙に書いた願い(縁切りなど)を破れるまで、占い師が親の仇の如く、滅茶苦茶に叩きまくってた。この占い、凄い人気なんだって。でも、こんなの効くはずないじゃん」と。「そうかな。少なくともストレスの解消にはなるでしょ。それを見て、心が晴れて、気持ちがスッキリして、今までこだわっていた事が薄れて、別の方向に目を向ける事が出来る様になる人も、中にはいるんじゃないのかな。何かしらの意味がなきゃ、100年も続かないと思うよ」と。
すると、この檀家若者(女性)が「えっ、住職は『占い師、信じる派』でしたっけ。以前、数ヶ所の占い師の職場(店舗)に呼ばれて『よく当たる様に、お祓いをしてください』と頼まれたって、言ってたじゃないですか」と。対し「拙僧個人としては、完全否定ではないよ。あまり興味はないけどね。確かに、お祓いは頼まれたが『占いが、よく当たります様に』とは、祈願してないよ。『この地で商売をさせてもらいますので、どうか生計が成り立ちます様に、お力添えを』と、氏神(土地の神さん)さんに、お願いしたんだよ」と。
続けて、拙僧「まあ、占いは、占いで、それなりに意味はあると思うよ。当たる、当たらんは、どうでもいい事。人は時間が経つに連れ、知識、知恵、経験が、刻一刻と増していっているからね。その人を取り巻く状況は、常に変わっていってる。良か言葉(占い)を手向けられて、嬉しくなり、明るく希望を持って、生きていく事が出来る様になる人もおれば、悪か言葉(占い)を向けられ、落ち込む人もいるだろうが、中には、頑張ろうと奮起する人もいるんじゃないかな。占いは、人生の起爆剤の役目があるといえば、あるかな。血液型占いも同じ事だよ。『何型の人は、こんな人間だ』と人格を決め付けられて、開き直る人もおれば、逆に『そうであるならば、気を付けよう』と反省して改善しようとする人も。要は、受け取る人の心次第だと思うがな。因みに、世界で血液型占いを信じている国は、そんなにはないとの事。そりゃ、そうだろうね。世界人口70億人の内、同じ血液型の人は、誰1人もいないという事。偶に、ほんと偶に、一卵性双生児に同じ血液型がいるくらいで。まあ、何にせよ、今年は『否定から入って、否定し続けたら、得るものは少なくなる。否定しながらでも、少しは肯定出来る道を探ろう』の心で、君は1年を過ごしていこうね」と今年の初めに、この檀家若者(女性)に。
この仕事(住職)をしておりますと、時折「信仰とは、何ですか」と問われる事があります。先日も50代の知人女性から「最近、信仰について興味を持つ様になって。だけど、信仰に対する怖さも、拭(ぬぐ)えなくて」と。対し、拙僧「例えば、ですよ。鶯(うぐいす)が鳴かずとも、虫の動き、開花、陽気などで、春の訪れは容易に悟る事が出来るでしょ。が、そこに鶯が一声「ホーホケキョ」と鳴いてくれたら、その春に彩を添えてくれますよね。信仰とは、この鶯の鳴き声(彩り)の様なものかな。別に、無くてもいいが、あればそれなりに、心の癒しになったり、時には勇気を与えてくれたり、と。ただ、皆、勘違いしているのが、先祖の供養と信仰とは、根本的に違うという事。信仰とは、私達の法話などを聞いて『そんな考え方もあるんだな。そんな視点の向け方もあるんだな』と人生の参考にするもの。が、決して鵜呑みにしてはいけない。常に疑問を持って事に当たれば、洗脳される事もなくなるだろうし、道を大きく逸れる事も避けられる、と思うよ」と。
続けて拙僧、この50代女性に「常識的に考えて『これは、おかしい』と疑問に思う事は、やっぱりおかしい、と思った方がいいかな。一旦、その場に立ち止まって、じっくりと考えてみる必要があるよね。その時は、1人で悩まず、親でも、友人でも、誰でもいいから、聞く耳を持って、人に相談してみる事も大事かな。それと信仰において、最も気を付けなきゃならんは『功徳を積まにゃ、病気になるぞ、死ぬぞ、災難に遭うぞ』などの脅し信仰の類いだわな。脅し信仰による『功徳を積め』とは、本来の『功徳』とは質が異なり、つまりは『金を出さんかい』という事にて。キリストさん、お釈尊さん、達磨さん、最澄さん、空海さん、法然さん、親鸞さんなどの祖師が『脅して人を導いた』なんて話、聞いた事がない。信仰は特別な物じゃないですばい。特別な物にしている者がいるだけで。知識を付けなさい。知識は己を守る鎧になるから」と。
更に続けて、拙僧「それと、再度言いますが、勘違いしてはならないが、先祖の供養は信仰とは違う、という事。命を流してくれた人達に、感謝の心を向けるは、当たり前の事にて。この当たり前の事が出来てない人間、つまり、親や先祖など、当然感謝せにゃならんものを、感謝出来ない人間を、信用してくれる人などおらんよ。結構にこの」事を、その人が信用出来る人間か、信用出来ない人間か、の基準にしてはる人は多いようですばい。『いつしか、私もこの人に、裏切られるのではないか』と不信感を抱かれて、最後は孤立する事に。そりゃ、中には、感謝の対象にならない親もいるでしょうが、代々命を繋いでくれた先祖までも、同じ様に毛嫌いするはやめた方がいいかな。まあ、取っ掛かりは、こんなもんかな、信仰をするに当たって、気をつける事は。信仰で人生を狂わした人は、山ほどいる。自分の身を守るは、自分だからね」と。「わかりました。だけど、住職、信仰のプロがそんな事を言って大丈夫なんですか」と。「信仰の世界に身を置いているからこそ、奥の奥までわかるんだよ。『名医を教えてもらいたければ、医者仲間に聞け。名匠を教えてもらいたければ、大工仲間に聞け』という言葉があるよ」と、この50代知人女性に。
次回の投稿法話は、11月5日になります。
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