金剛寺住職6月の法話

毎月1日に投稿させていただいております法話は、SNSを扱えない人達(檀家のご老人達など)の為に、コピーして配布させて頂いているものです。中には、拙僧法話を読んでいただいております社長さん達が、この1日法話をコピーして、社員さん達に配布しておられる会社も。そうした意味合いから、少々長文になっておりますので、鬱陶しいと思われる読者さんにおかれましては、どうぞ、スルーしてくださいませ。

【はじめに】

6月1日は、米国の社会福祉活動家であったヘレンケラーさんの祥月命日(1968年没、行年87歳)ですね。1歳半の時に高熱による髄膜炎に。命は助かったものの視力と聴力を失う事に。ヘレンケラーについての生涯は、ググってみてください。ヘレンケラーの言葉の中に「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒に振るか。この世で1番哀れな人は、目は見えていても、将来への夢が見えてない人だ」と。


令和 8 年 6 月分 金剛寺住職短文法話集

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SNSでは定期的に『戒名』の存在意義を問われる事がありまして。問うてこられるは、女性ではなく、その大半が男性でして。そこで今日は、その戒名のお話を少々させて頂く事と致しましょうかね。

数年前の事ですが、78歳で他界された檀家の男性は、後取りがいない娘さんばかりの家に、婿養子に入るという約束で結婚(見合い結婚)をされました。婿養子といえば、昨今では、昔ほど家の存続を求める意識はなくなってきましたが、以前は拙僧、家の存続に固執する親御さん達に「女の子しか生まれなかった時点で『この家はもはやこれまで、末は永代供養にするしかない』と諦めなさい。そうでないと『家も潰した、娘の人生も潰してしもうた』という事になりかねませんよ。将来において、婿養子に入ってくれる男性が現れたり、嫁いだ娘さんに複数の男の子が授かり、その中の1人が『爺ちゃん、婆ちゃん、僕がお母さんの実家を継いであげてもいいよ』という孫(男の子)が出てきたら『こりゃ、ラッキー』というくらいに思っておいた方がいいですよ」と進言する事が、本当に多かったですよね。ジタバタしたって、世の中の事は、なるようにしかならん。

さて、この78歳で他界された檀家の男性ですが、結婚して10年は、婿養子の話は一言も口には出さなかったという事でした。奥様の方も『まあ、いいか。このまま(婿養子に入ってくれなくても)でも』と半分諦め掛けていたとの事。ところが、ある日の事、ご主人が突然に「いいぞ」と。対し、奥様が「いいぞ、って、何よ」と返すと「いいぞ、ってこったい」と。 自分の心に婿養子に入る事を納得させるまで、10年の月日が掛かったんでしょうね。月日は流れ、その男性が他界され、枕経に伺った時、奥様と1人息子さんに「お父さん(ご主人)の戒名ですが、この方の人生を漢字1文字で表すとしたら、何という漢字が当てはまると思いますか」と尋ねると「えー、わかりません」と奥様が。「絞り出してごらん」と返すと「実は、亡くなる数日前、看護師さんが『光元さん』と主人を呼ぶと、朦朧(もうろう)とした顔で『わしは、大川、だぞ』と、生まれ里の苗字を口に出したんですよね。この時『この人、ずっと、心に引っ掛かってたんだ』と思ったんですよ」と奥様が。「そうですか。了解しました。その話から戒名を考えてきましょうね」と拙僧、ご遺族の方々に。

拙僧はこれまでに、1000人以上の葬儀を勤めてまいりましたが、必ず葬式後には法話の中で、戒名の説明を行なっております。この男性の葬式後にも、ご遺族と会葬者の方々に拙僧、戒名の説明を致しました。「故人の送り名(戒名)は『大光院中興〇〇居士位』と授けました。光元家に婿養子に入ったので『光大院』でもいいかな、と思いましたが、いや、待てよ、頭が朦朧とする中で『自分は、大川、だ』と最後の言葉を。この事を奥様から伺って、これは『大』が先だ、と『大光院』としました。また、故人が光元家に入ってくれたお陰で、後取りの息子さんが生まれ、その息子さんから、また、後取りの息子(孫男子)さんが生まれ、と。言うなれば、故人は、光元家を繋ぐ役目を担ってくれた功労者である、という事から『光元家中興の祖』の意味合いで、道号に『中興』の文字を。百年後、わがお寺に座る住職が、この戒名の意味を読み取る事が出来たら、子孫達にこの先祖(故人)の生き様を、話して聞かせてあげられるかも」と、ご遺族、会葬者の方々にその様なお話を。

続けて、ご遺族、会葬者さん達に拙僧「昨今では『戒名などいらん』という人達が増えてまいりましてね。特に、男性陣の方が『要らん』と拒否する人が多いかな。拙僧の俗名は『博文』と言いますが『山本博文位』では、どんな人か、何をした人か、さっぱりわからん。が、戒名に使われている漢字を見れば、何が原因で他界されたか、どんな職業に就いておられたか、どんな生き様をされたか、どんな性格の持ち主であったか、など、それらを知る事が出来ます。わがお寺の檀家さんには『戒名から、先祖を知りたい』と尋ねてくる人達も少なからずおられまして。先祖の戒名から『ロマン』を感じるそうで。考えたら戒名というは、その家の何よりの資料になりますよね。それでも、戒名など必要ないと思われますか」と葬式の度に、そこに集う会葬者様達に。

戒名の話をする時には、常に次の様な話を付け加えるのですが、90代の檀家爺様が「戒名は生きている内に貰うが本当なんじゃろ。住職よ、わしにも戒名を授けてくれや」と。すると伴侶の婆様が「住職、遠慮なく、この人の生き様を戒名に付けたって」と薄笑いを浮かべながら。「それでは、遠慮なく」と拙僧『天寿院好色一代居士位』と授けました。すると、爺様は絶句、婆様は大爆笑に。『天寿院』とは、その生き方を全うした、という意味にて。『好色一代』とは、生涯浮気三昧、という意味にて。すると爺様、唸りながら「住職よ、こりゃ、あかんぞ。100年先の子孫にまで『この人、余程に好き者だったんだろうね』と笑い者になる。何とかならんか」と頼み込むので「じゃあ、爺様、あと数年はこの世にいるだろうから、その間、婆様を大事にするかい。するなら『天寿院伴侶一筋居士位』に変えてやってもいいよ」と言うと「必ず、大事にする」と爺様が。拙僧は「住職の仕事で、何が最も好きか」と問われたら「戒名を授ける事」と答えるかな。その人の一生を10文字(位を含む)で端的に表し、それが末代まで残るなんて、そんな仕事、住職にしか出来ない仕事ですもんね。

因みに、わが寺の檀家さん夫婦には、必ず夫婦位牌(めおといはい)を作らせておりますが、だいたいこれを敬遠するは、奥様の側かな。「なんで死んでまで、この人(ご主人)の横におらにゃならん。真っ平御免被る」と。いったいご主人達は、何をやらかしてきたんだろうね。まだ間に合う旦那は、急ぎなっせ。

【余談】

こんな話がありました。その町(田舎)に引っ越して来て約10年、町内から馬鹿にされ続けた檀家のご主人が他界(81歳)を。葬式の時、町内の人達がマイクロバスで会葬に。葬儀場に入り、戒名を見た途端、その戒名が『〇〇院〇〇〇〇居士位』の『位』を含めた10文字、使われている漢字から「今でこそ、この家族は落ちぶれてはいるが、その昔はそれなりの家柄だったのだろう」と町内の人達は、故人の人生(家柄)を戒名から読み取ったみたいで。この家族に対する態度がその日(葬式日)より一変したとの事。この話は、昔の話ではなく、昨今の話でございます。「今でも所によっては、戒名の威力は凄いんだな」と思わされた出来事でしたね。

例えば、真言宗大本山金剛峯寺に所縁の深い寺院には、大圓院、地蔵院、蓮華院など『寺』ではなく『院』の字が。この『院』と同様の意味が、戒名に使われている『院号』にて。昭和の初め、特に戦前までは、如何にお寺に頼み込もうと、寄附やお米、野菜などを奉納、毎日境内の掃除、法要の時のお手伝いなど、お寺に貢献してない人には『院号、居士位、大姉位』が授けられる事はなかった。戦後になり、成金、成り上がり、という人達が世に。ところが、そういう人達の戒名が『釈〇〇位』の4文字。対し子孫が「私の父は人生を成功させ、地位、名誉、財産を手に。この4文字戒名では『なんだ、この人、自分の欲だけに生きた人間か』と最後の最後で世間の笑い者に。どうか『院号、居士位』を父に」と。対し、お寺側が「あなたの父親は、何もお寺に貢献をしておりません。その様な人に『院号、居士位』を授けたら、貢献をされて、それ(院号)を授かられた側の檀家さんから文句が出ます。どうしても『院号、居士位』を、と言われるなら、それなりの寄附をお寺の方に」と。これが戒名料の始まりに。つまり、庶民側の見栄から起こったが、戒名料の始まりにて。それを逆手にとって、お寺側が高額の戒名料を取る様に。が、わが寺では、戒名料は無料にて。全ての人に『院号、居位、大姉位』を授けております。ただ、戒名料を取る寺院が、悪い訳ではないですよ。日本にある77000寺院の内、既に、25000寺院が住職不在の廃寺に。戒名料が寺院経営の収入になっているお寺も沢山あるでしょうからね。


令和 8 年 6 月分  金剛寺住職 臨時法話


今月の6月2日といえば、本能寺で織田信長公が明智光秀公の謀反により、討ち取られた日である事はあまりにも有名な出来事ではあるが、これについては拙僧、小学生の頃より無類の歴史好きであった事から、12歳の時には既に、次の様な疑問を抱いていました。備中高松城から京都の山崎までは、約230キロの距離がある。6月2日に信長公が討たれて、6月13日には京都の山﨑に秀吉公は、光秀公討伐の布陣を。6月3日に信長公の訃報が秀吉公の元に届き、6月4日に清水宗治公(高松城主)に自刃させ、水責めの水を取り除き、毛利の追手を足止めにして、京都へ向かって出発出来るは、早くても6月6日という事になる。6月13日に布陣させるには、8日間しか時間がない。歩きで1里(約4キロ)約1時間と言われているので、早足で走らせても2万の兵を動かすには、1日30キロが限度ではないかと、そう考えた。恐らく、現在の様な広い道路ではない道を、40キロの重さがある鎧を付けた兵2万を、途中、飲まず食わず、寝かせずで8日間も走らせる訳にはいかんし、こんなに早く現地に到着出来るはずがないと、小学生だった拙僧は思っていました。

拙僧12歳から抱いていたこの疑問が、昨今、方々の古文書から新たな見解が様々出てきておりますよね。まあ、古文書を全て信じている訳ではないが、その当時の事情で、そう書かなければならなかった、という事もあったでしょうからね。秀吉公は高松城を攻める前に、数百艘の船を村上水軍から調達していたとの事。その船に兵の鎧(重さ40キロ)を乗せて、裸で2万の兵を走らせたと。これなら、どうにか8日間で京都の山﨑へ。が、ここでもう1つ疑問が。どうして秀吉公は前もって、村上水軍から数百艘の船の調達していたのか、という事になる。信長公が襲われるを前もって知っていたのかな、という事に。明智光秀公にしても、備中高松城へ秀吉公の加勢に行く途中「敵は本能寺にあり」と反転して本能寺へ。が、人の目に触れぬ脇道(山越え)を通れば、検証結果では、本能寺到着は昼前後に。人通りの多い本道を通れば、朝方には本能寺に着けるが、しかし、本道を通れば、あの目敏い秀吉公の耳に入らない訳がない。恐らく街道筋には、数多の物見の者(敵情を探ったり、見張りをする者)を配置していたはず。そう考えたら、秀吉公は謀反を知っていたのでは、という事に。

もっと言えば、秀吉公の動きなど、光秀公は百も承知だったはず。なのに、本道を使って本能寺に。そう考えると、秀吉公と光秀公は裏で組んでいたのではないか、という事に。昨今発見された古文書には、光秀公は関ヶ原の戦いの当日、徳川側に加勢に向かう途中、川で溺死したという記載が残されているという。大河ドラマであった『麒麟がくる』の最終回では、光秀公が街を歩いている姿を描いた場面が。これを見た時、山﨑の戦いでは死ななかった、の説をこの作者は選ばれたんだな、と思いましたね。明智が徳川との縁(ゆかり)が深かったのでは、と思える点についても、家康公は三代将軍家光公の乳母に、光秀公の重臣だった斎藤利三公の娘、お福(後の春日局)さんを抜擢したのを見ても、明智と徳川が親密な関係であったのではないか、と伺われる。

信長公にしても「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」という気性を表す句がありますが、これは江戸時代に作られたものにて。信長公の事を覇王、魔王にしておいた方が、徳川家にとっては都合が良かったのかもしれないですね。家康公は、あの信長公でも成し遂げる事が出来なかった天下統一という偉業を成し遂げた人物であった、というを世に知らしめる為にも。因みに、三武将の内、最も気が短かかったは、家康公との説もある様で。本能寺(当時は、現在の本能寺より数百メートル西の位置)の変にしても、街道筋から本能寺の境内を見下ろすと、お寺が丸見え状態だった、という事にて。戦国の世でトップを走ってたとはいえ、何という無防備なこって。僅かな兵だけを連れて本能寺に泊まるなんて『どうぞ、襲ってください』と言ってる様なもの。比叡山焼き討ちにしても、昨今検証されて、土(焼け跡)を調べたところ、焼き討ちされたは根本中堂だけで、あとは比叡山の資金源であった門前町の坂本を攻めたがメインであったとの事。その比叡山にも「浅井、朝倉に手を貸すはお止め下さい」と信長公は手紙を出して、返事がないを1年も待ったとの事にて。裏切った家臣(荒木村重公など)なども、殺さずに放置したは、少なからずと。そう考えてみると「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」は本当に、信長公の気性を表わしたものだったなのかな、という疑問が浮かんできますよね。

史実とは、四(史)割が本当(実)で、あとの六割は、嘘と。リアルタイムにおいても、人の口を数人渡ったら、初めの話とは全く違う話になって伝わっていきますもんね。だからこそ、人(他者)の話を鵜呑みにしてはいけないのだが。それが昨今では、第三者の話を自分の目や耳で確認もせず、鵜呑みにして、決め付ける人間の何と多い事か。それが数百年前のものともなれば、尚のことにて。信長公、光秀公のいた450年前に戻って、確認する訳にはいかないし、後世に残された資料から、憶測で推察していくしかない。それも、古文書が見つかる度に、話の内容が次々に変化をしていく。それが故に歴史は、ロマンなんだろうけどね。

因みに、信長公の本廟は、京都市上京区寺町の阿弥陀寺にあると。本能寺で信長公自刃の後、数名の家来が「亡骸を敵に渡すな」の遺言で遺体を焼いた後、信長公に世話になっていた阿弥陀寺の開山、清玉上人が本能寺の僧侶達に紛れて、信長公の遺骨を阿弥陀寺に。信長公の遺骸が見つからなかった事が、光秀公の3日天下の要因になったとの話も。秀吉公が「信長公は命が助かり、現在、身を他に移している」とのデマを方々にばら撒いたが為に『信長公は生きている』と思った武将連中が、光秀公の加勢をしなかった、光秀公の加勢が出来なかった、という説が。いやー、秀吉公の頭のキレは尋常では。6月2日が来る度に毎年、信長公、秀吉公、家康公、光秀公の事が脳裏に。何百年も昔の話なのに、今だに生き様(人間模様)が、私達の生活の中に教訓として。素晴らしいですよね。これは、歴史上の人物以外でも、我が家のご先祖の生き様においてもまた、言える事かな。

最後になりますが、福岡県下トップクラスの進学校(高校)へ講演に伺った折り、社会科の教諭に「何故に日本史は『平成がこうなったのは、昭和がこうであったから。昭和がこうした事が起こったは、大正、明治がこうであったから』と、平成時代、昭和、大正、明治と、現在から遡る様に学習していかないんですかね。近代歴史の方が重要であるのに、いつも学年末にバタバタと。若者達に近代(昭和、平成)を詳しく勉強させるは、国にとっては支障があるんでしょうかね。家内(拙僧の妻)の妹が英国人に嫁いで、子供が4人(現在全員20歳越え)いますが、彼らが小学生の頃『おいちゃん(拙僧の事)、ロンドンの学校では、この戦争はどうしたら回避出来たか、と、小学生にディスカッションをさせるんだよ』と聞いた時には、少々驚きましたね。ただ単に、記憶させる日本の学習方法(社会科)とは、随分と違うな、と思いましたよ」と、その進学校の社会科教諭に。

ロンドンと言えば、話はコロッと違いますが、これは余談ですが、読者の未婚女性が「住職さんの法話の中で、結婚、離婚に纏わる話が幾つかありましたが、その中で、ロンドンに住んで27年になる奥様の妹さんが『英国では離婚の時に揉めない様に、弁護士を間に入れて、婚姻届と離婚届を同時に作成しておく』と。英国では、どのくらいの夫婦がこの様な事をされていると、妹さんは言われておりましたか」と。「妻の妹が言うには『世間においては結構、耳に入る話ですが、友人、知人の中では、1割くらいかな』と言ってましたよね。何故、こんな質問をするの」と尋ねると「離婚なんかしたくないに決まってますが、現実的に現在日本は、3組に1組は離婚してるでしょ。私の知人、友人にも離婚しているのが、何組も。それも、結構に揉めていて。結婚前に離婚の事など、本来は考えたくはないのですが。そんな時に住職の法話が目に。もし万が一、離婚訴訟になった時、事前に知っておいた方がいい、といわれるものはありますか」と。「離婚の時に最も問題になるは、財産分与かな。不動産も、車も、家具なども、全ての財産は2等分する権利があるもんね。基本、結婚前の財産は、本人だけのもの、結婚後の財産は、夫婦共通のもの、と。他にも財産分与の対象は、預金、株、投資信託、退職金、企業年金、個人年金なども、そうかな。せこい男性は、これらの財産を隠し持っているのがいる。常日頃から、ご主人の郵便物に目を通しておく事も大事かな」「なんか、夫婦って、狐と狸の化かし合いみたいですね」「あなたが聞くからですよ。そうならない夫婦でなきゃ、だめだよ」と。

次回の投稿法話は、6月5日になります。

天徳山 金剛寺

ようこそ、中山身語正宗 天徳山 金剛寺のホームページへ。 当寺では、毎月のお参りのほかに、年に数回の大法要も行っております。 住職による法話も毎月のお参りの際に開催しております。 住職(山本英照)の著書「重いけど生きられる~小さなお寺の法話集~」発売中。