平成29年4月分 不動明王のお顔は、必死の姿の表れ

 金剛寺の檀家さんの中には、会社からの辞令で外国勤務をされておられるお方が何人かおられましてな。先日、その中の一人のお方から面白い話を聞かせてもらいました。お話の内容はこうでございました。「ご住職、この話は現地の人から聞いた話ですがね。ある時、大雨続きで川が氾濫し、多くの町や村が大水の被害を受けたそうでして。そこで国が予算を出し、河川工事を含め、その川に鉄筋の大きな橋を架けよ、との指令が下ったとのことですわ。ところがですたい。その受注を受けた大手の会社がそのまま下請け業者へと丸投げ。丸投げされた下請け業者が、またその下へとさらに丸投げ。これが繰り返され、丸投げされる度に国から出たお金を下へ流す業者がその都度抜き取っていき、とうとう最後はお金(予算)が無くなり、「竹の橋」しか作れなかったということですわ。現地の人は笑い話のように語っておりましたが、これは笑いごとじゃないよね」と。確かに、笑いごとではないですよな。これは他国の河川工事の話ですが、私たち自身のことに置き換えたらどうじゃろうかいな。「鉄筋の橋」でなく、「竹の橋」を子孫に残そうとしておらんじゃろうかいな。

これに似通った話なら私も持っておりまして。学生時代、アルバイト先でご縁の合ったお方が、さも自慢げにこんな話をされておられました。大手企業である自分の会社が数十億円の仕事を請け負い、その担当部長を任されたとき、「その予算から500万円抜いてわしの家に車庫を建てろ、と指示したんだよな」と悪ぶれもせずにしゃあしゃあと言ってのけられておりました。まあ、その話が本当かどうかは。別に裏付けを取ったわけじゃありませんからわかりませんがね。私が若僧であったことから、「俺は力があるんだぞ」とただ単に見せつけたかっただけなんじゃないのかな、とその時はそう思いましたが。しかし、人というは経験と体験の中からしか、知識も知恵も教訓も身につきませんから。そのお方が仮にハッタリだけだったとしても、そんな言葉が出るということは、恐らく会社の上司にそんなことをした人がいたんだろうな、と推測してしまいますよね。そう考えたとき私は、その500万円があればどれほどの中小企業が助かるんじゃろうか、と内心憤りを感じましたな。

以前4,5人の従業員を持つ会社の社長さんが、こんな悲痛なことを言っておられました。「大手会社に見積もりを出しても受け取れるお金は、半額の8掛けじゃ」と。つまりですたい。100万円の見積もりを出しても、半額というと50万円、さらにその8掛けとなりゃくさ、受け取れるお金は50万円×0,8、つまり40万円になると。下手をしたら材料費にもならないと。しかし、その仕事を受けなければ、次の仕事が入ってこないから、どうしても受けるしかないと。先般、お寺の工事を請けてくれた土建屋の社長さんがこんなことを言っておられました。「住職さんや、わしらの仕事は、1割抜ければ蔵が立つといわれておるんじゃ(1000万円の仕事で純利益100万円)。しかし、1割抜けるどころか、どうにかして赤字を出さんようにするのが必死じゃよ」と。何か、こんな話ばかりを聞いていたら、「落穂集」の中にある家康公の「百姓は生かさず、殺さず」の言葉が頭をよぎりますな。

請負と言えばそれこそ昨年は、あちこちでマンション杭打ち問題が世の中を騒がせよりましたな。丸投げされた業者が仕出かしたミス(偽装)だといわれておりましたが、もし、もし万が一ですばい、上記のような見積もりの半額8掛けでやれ、なんてことを言われていたとしたら、下請け業者さんも生活をしていくためには、不本意ながらでも手抜きをしなければならなかったんじゃないか、とそう思ったんですよね。あくまでも私の憶測の範囲ですけどね。しかし、単なる儲け主義によるものだったんなら考えもんですけど。んんっ、・・だけど、マンションに住んでおられる人(第三者)にとっては、たまったもんじゃないよね。信じて買った、というよりも、そんなこと(手抜き工事)億尾にも考えてなかったでしょうからね。大方の人は、家というは一生に一度の買い物ですからな。そういえば昨年のこの時期ですが、空家の問題についても世間で取り上げられておりましたな。なんと今現在において800万戸ですって、数十年後にはその何倍も空家が出るとか。素人考えで申し訳ないんですが、マンションを方々で建てている業者さんですが、この空家に目を向ければいいのにね。安く買ってリホームして、賃貸で貸せば諸問題の解決にも繋がると思うんですがな。

先月の法話でも言いましたが、プロと言われる人達は、素人さん達を納得させることが出来て初めてプロですもんね。不信感を抱かせるようではプロとは言えませんよね。私達の宗教の世界でも、これと同じことが言えます。昨年の11月、15年ぶりにわが寺から僧侶(得度出家)さんが生まれました。私の代になって2人目です。その折、本山のある若い徒弟さんからこんなことを問われました。「住職さんは、何故そんなにお坊さんを輩出しようとしないんですか」と。乱暴な言い方だとは思いましたが、「平仮名、片仮名、漢字を知らんと本は読めんだろ。足し算、引き算、掛け算を知らんと数学は解けんじゃろ。ある程度の知識や人格がないと、世の中を騒がせよるだけだよ。成り立ての僧侶とはいえ、プロは、プロだからね」と、そう返答しました。その年の11月の中旬、御礼報謝で高野山に参拝させていただいたのですが、その折り奥の院では法衣をまとった100人ほどの僧侶さん方が、何かしらの法要を営まれておられました。しかしながら、そこに参列されている信者さんはまばらにて。実はこのような状況は、時折高野山では目にすることがあるんですが、その度にくさ、真言宗のお坊さま方の揺るぎないプロ意識を感じるんですよね。参拝者が多かろうと、少なかろうと、人が見ていようと、見ていまいと、しっかり勤めるべきことは勤めるという姿勢を、ですな。また、この時のご縁の中で今一つ、改めて振り返りをさせられたものがございました。あるお坊さまから、「英照さんは、不動明王ですが、何故あんな恐っろしいお顔をされていると理解されておられますか」と。実は、不動明王を含む明王といわれる方々は、「忿怒(ふんぬ)の形相」といってですな、みんな怒りのお顔をされておりましてね。諸説いろいろある中で私が一番好きな説といえば、例えば不動明王ですが、慈悲をもって私たち衆生(迷える人間)をどうでもこうでも救おう、という必死の姿を表わしたものであると。つまり、「お前さん方よ、何事も必死に成し遂げようと思えば、自然とこんな顔にならんかい。こんな顔になるほど、必死に成し遂げようと努力をしておるかい」と問いかけられておられるものだと。まあ、これが一番しっくりくるかな。ところがこうなるとくさ、屁理屈こきが一言ですばい。「なら、優しいお顔の如来や菩薩は、衆生(人間)を必死で救おうという気がないんかい」と。あのですな、例えば子供を教育する時、全員怒りの顔で攻めあげたらどうなりますかいな。大人は一人一人役割がありまっしゃろ。ただ、その役割を担う人達は、決して手抜きをしないことですな。子供は、工事でいうところの「基礎」でっせ。手抜きをしそうになったら、不動明王のお顔を思い出してくださいませ。

天徳山 金剛寺

ようこそ、中山身語正宗 天徳山 金剛寺のホームページへ。 当寺では、毎月のお参りのほかに、年に数回の大法要も行っております。 住職による法話も毎月のお参りの際に開催しております。 住職(山本英照)の著書「重いけど生きられる~小さなお寺の法話集~」発売中。