平成29年3月分 プロは素人を納得させる仕事をして初めてプロ

 実は先日のことですたい。ある檀家の婆様が疑念の意を露わにしながら「ちょっとくさ、英照さんや、聞いちゃってくれんかん」とある地方での叔母の葬式に列席した折りの話を、やや興奮気味に捲し上げてこられましてな。まあ、その、話というのはこうですたい。

 まず、友引の日に遺体を火葬にして、次の日に葬儀をしたことに対し「施主側がそう希望したんじゃないの」と問うと婆様が「んにゃ、うちの親戚は葬儀の知識などほとんど持っとらん。お寺側が「そうします」といきなり言い渡してきたんじゃ、こんなことってよくあるんかい」と。「んんっ、まあ、時と場合によっては、ね。例えば、遺体が見せられない状態であるとか、遠方で亡くなられたので遺骨にして持って帰って来られたとか、ね。特別な事情かなんかあったんじゃないの」と問うと、「なんもないわい。最期の10日間は、わしが付き添ったんじゃ。・・・それとな、その葬儀に連れてきた伴僧(脇にいる僧侶)じゃが、なんと8人や、それもアルバイトじゃと、一人5万円払えじゃと。このことは世間の人には内緒にしておいてくれ、と住職はんに言われたんじゃ」と。「・・・んっ、内緒、・・何、どういうこと。内緒って、そんなこと出来んやろ。会葬者がおられるじゃん」と聞くと「家族葬だったんや。それもお寺側の指示で。誰も会葬者が来んから、施主側が黙っときさえすれば世間にはわからん。恐らくそういう計算ずくや」と。「そりゃ、お布施料も高かったろうね、伴僧さんだけで40万円だもんね」と。「・・・家族葬で質素な葬儀だったのに、掛かった費用は250万円じゃ。わしは内容の詳細は聞いてはおらんが、お寺のお布施だけでいったい何ぼほど取られたもんやら。あんたんとこ(金剛寺)は戒名料を取らんから、わしらは見当もつかんが。お寺によってはえろう高いんじゃろ」と。「まあ、ね、院号、居士,大姉が付いたら50万円、100万円ってお寺もあるにはあるけどね。だけど、お寺側をかばうつもりはないけどさ、本来「院号」を貰えるお方というのは、そのお寺にすごく貢献されたお方だけだったんだよね。寄付金だけに限らず、体を使っての奉仕を長年に渡り勤められたお方とかね。例えば、高野山(真言宗)の本山は金剛峯寺というお寺なんだけど、その山内にある塔頭(たっちゅう)は全て、大圓院、地蔵院、普賢院、蓮華院というように、「院」が付いていてね、これは本山との縁(ゆかり)が深いお寺を意味しておるんだよね。戒名の「院号」もそういう意味あいから来ているんだよ。ところが近年になって、腕一本で莫大な富を稼ぎ出す、所謂、成功者と言われる人達が生まれてくるようになり、その頃からかな、戒名に大金が付き始めだしたのは。どういう意味かというと、例えば一つ例を挙げればね、成功はしたが自分の利益だけが中心、わが先祖を回向してくれている菩提寺には何の貢献もなし、という人がいたとしましょうかね。貢献された方の戒名が、「○○院○○○○居士位」の10文字とすると、貢献されてない方の戒名は、「○○○位」の4文字。戒名を見ただけで、その方の奉仕の心の度合いがうかがい知れるので「なんだこの人は、成功はしとるようだが、私利私欲だけの人生だったのか」と当然世間の目はそう見ることとなりますわな。そうなったら子孫は「成功者であるわが親が死後、世間からそんな風に思われるのは忍びない」とご住職はんに、「親の戒名に院号を付けてくれませんか」と泣きつく。ところが二言返事で「いいですよ」というわけにはいかんのですわな、これが。お寺に貢献をしてきた檀家側から当然文句が出てきよりますわな。「なんでや、何も貢献しとらんもんに」とね。そんなことから「貢献度同一」を繕うために、戒名に多額の金額が設定され始めたんですよね。だから、多額戒名料の起こりは元々お寺側から出た話じゃないんですよ。ただ、現在の設定基準は知らんですよ。お寺によってもまちまちでしょうからね」と。「・・・なるほどな」と婆様一応納得を。ところがさらに、「もう一つあるんじゃが。葬儀が終わったその日に納骨(お墓)をやりおった。それもさらしの袋に入れてそのまま土に埋めおったんじゃ。施主側の喪主や親戚一党を一人も立ち会わせずに、お寺の関係者だけで墓地へ行き納めおった。不審に思ったからお寺さんに尋ねたら、「この地方の習わしです」と言いおった。これ、どう思うや、英照さんは」と婆様が。「そうやね、地方には地方のしきたりというもんがあるからね、・・・んんっ、でも、あまり聞かない話かな。まあ、50回忌過ぎたら骨壺から出して、戒名を書いたさらしの袋に遺骨を入れ替えて、お墓の中の土に埋めるという作法はあるにはあるけどね。その故人の50年ともなると、その故人を知っている人(子孫)たちもこの世からいなくなっている確率が高いから、50回忌を最期に永代供養という形にするんだよね。そうだね、んっ、あとはだね、そんなやり方をお寺さんがされた理由としてはくさ、子供さんがいないとか、女の子だけで跡取りがおらっしゃれんとか、そんなんじゃなかったんかい」と返すと、「息子もおれば、孫も男の子じゃ」と婆さま憤慨治まらず、です。

 私にはこの婆様の愚痴を聞いてあげることしか出来なかったですな。そのお寺さんの習わしを知らんからですね。まあ、でも、50年かけてやる仕事を1日で済ませたという印象だけが残りましたな。49日の間家の中で、線香立てて、ご飯を供えて、遺影を見ながら話しかけることによって、しんみりとこれまで受けてきた「恩」というものを噛み締めることが出来るんですけどな。最近は何でも簡単にことを済ませてしまおう、面倒くさいのはうんざりだ、御免だ、という傾向が主流になってきたみたいでね。「お前さんの言うことは聞く耳なんてない。だけど、俺の言うことは聞け」という面倒くさい人間が増えているせいですかね。まあ、しかしね、どの分野においても、プロといわれる人はアマチュアの人を納得させることが出来て初めてプロでっしゃろ。不審に思われるようではプロとは、ですな。

ただそうした中で、一つだけこの婆様の心の荷を落とさせたことが。付き添った最期の10日の間、息を引き取りかけた場面が数度か。「何で叔母はこんなに頑張ってくれたんじゃろうか」と婆様。そこで私は「昔ね、明治天皇の侍講(じこう)を勤められていた元田ながざねという方が示した「幼学綱要」というものがあってね。その第一篇に「痛ましや、お父上様、お母上様、私を育てていただいて骨折りご苦労あったとうかがっております。私を生んだばっかりにお疲れが出てご衰弱なされたと聞き及んでいます。お父上がおいでなければ相談する相手もなかったこの私、お母上がおいでなければ誰を頼りと致しましょうぞ」と親に対して「申し訳ないことをした」と今は亡き親の恩に悔み、空しい心が痛むとつづられたものがあってね。多分だよ、「こんな心を姪であるあなた(婆さま)が持つんじゃなかろうか」とこの叔母様、あなたが受けた恩をしっかり返しきったと思えるように、10日間頑張ってくれたんじゃないのかな。あなたが悔いを残さないために。私は、そう思うけどな」と言うと婆様「その言葉は嬉しい」と涙を。「じゃ、嬉しついでにお寺さんを許してあげな。あなたが怒り狂ったままじゃ、叔母さんも辛かろうよ」と。一件落着。

天徳山 金剛寺

ようこそ、中山身語正宗 天徳山 金剛寺のホームページへ。 当寺では、毎月のお参りのほかに、年に数回の大法要も行っております。 住職による法話も毎月のお参りの際に開催しております。 住職(山本英照)の著書「重いけど生きられる~小さなお寺の法話集~」発売中。