平成29年2月法話 本当に目を向けねばならぬもの

 日本に限らずですが、時には教訓として、時にはうさばらしとして、時にはその時代の風刺として、ありとあらゆる「諺(ことわざ)」が古より世に表されてきておりますが。実は先日ほんと久々にですな「女房と畳は、新しい方が良い」という言葉を耳にしました。この諺の本来の意味というは「新しいものはすがすがしくて気持ちが良い」というものであってくさ、誰に喧嘩を売っておるというものではないんですがね。しかしですばい、どう考えても女性全般に反感を買う言葉じりになっておるようだと思いませんかい。まあ、ね。男性本位であった封建時代に持ち出された諺だということだからね。だけど、新しいものというは何にしても当然馴染んでないわけだから、そりゃ、すがすがしいのは当り前ですわな。新しい風を求める人が一概に悪いというわけではないですが、そのことが奮起材料となる場合が案外にあるからね。同じような例え言葉なんですが、フランスではですな「女とワインは古い方が良い」と表現されておる諺があるんだそうです。間違いなく「古い方が趣(おもむき)があって良い」ということなんだそうです。私は「フランス側に、一票」ですばい。私自身が女房殿べったり人間ということもあるんですが、長年連れ添っておりますとですな、一言「なあ、・・あのな」と言っただけで、その前後の私の行動や顔つきから推察して「ぴん、ぽん、ぱん」と見事一瞬のうちに十ほど理解してくれよりますもんね。ほとんど見当違いの思い込みなしに当てよります。こんな居心地のいい場所はないですばい。流石にこの関係はくさ、日が浅い時代(結婚時当初)には、なかなかに得られるもんじゃないですもんね。まあ、浮気癖が止まらない、加えて隠し事の多い旦那はんにとっては、この洞察力にはびくびくもんでしょうがね。特に、女房殿大好きご亭主にとっては、尚のことでっしゃろうな。

しかしですばい、どうして日本とフランスではこうも表現の仕方が違うんでしょうかいな。こうした諺が持ち出された時代背景にもよるんでしょうが。表現内容だけを見て取ったとしたらくさ、特定の対象を名指ししている日本の「女房」と、女性全般の性質を表しているフランスの「女」の言葉の使い方から判断して、「日本は見た目重視、フランスは経験重視」ってことですかいな。この諺に関しては、ですな。飽きやす、好きやすも含め、流行にすぐ飛びつく日本人気質の表れでしょうかいな。実際、資源がない国だからね。なんでも飛びつかんと、背に腹は代えられんですもんな。まあ、でも、世の旦那さん方は、今は封建時代と違いますからね、「俺が食わせてやりよるんじゃ」は、晩年孤独の道に入り込むことになる禁句のアイテムでっせ。さあさあ、ちょうど今月は節分の月。魔(ま)を滅(め)っするという意味から豆を蒔き始めたということだし、色んな魔(邪見)を旧正月に追い出しておくのも、1年の初めとしてはいいかもです。自分が追い出される目にあう前に、ですな。

ところで晩年孤独と言えばくさ、先日同時に二つの話が転がり込んできました。一つは檀家さんが住んでいる町内での話なんですが、そこにそれはそれは人当たりのいい世話好きな60代の男性がおられてですな、みんなから信頼されていたらしいんですが。ところがその方の親が他界された折り、町内には知らせず家族葬で済ませたとのこと。他家の葬式には、世話好きから率先して采配を振るわれるのに、ご自分のところでは「我が家のことは構ってくれるな」と言わんばかりの態度でそんな親の送り方を。その対応に方々から出てきた言葉は「あの方はご自分の都合のいい時にはいいが、都合が悪くなったら、私達に対しても態度を豹変させるんじゃないだろうか」と。その檀家さんの愚痴話に対して私は「まあ、でも、ね。今回一回のその態度だけで、その方の人間性まで決めつけてしまうのは、ちょっとかわいそうな気もするけどな。何らかの理由でそうせざるおえなかったのかもよ。その時のその人が置かれている事情や、体調など、第三者にはわからんから。その行動が判断材料になるのは仕方ないけどね。だけど、当人だけがそのレッテルを張られるんならまだしも、ところがおっとどっこい、だもんね。蛙の子は蛙と、あの人に育てられたんだから恐らく『同じ穴のむじな』だろうと、謂われなき中傷を子孫が浴びる結果となることがあるからな」と。

ほんと残念ながら、人間というは恐っとろしい生き物なんだよね。その大小はあるにしても、自己保身のためには簡単に人を裏切りよる。「人間とはそういうものだ」と踏まえて対応していかんと、大火傷をさせられることになる。坊主がこんなこと言っちゃあかんが、悲しいかな、これが現実ですばい。中国故事成語の中に、「獅子は人を咬む」というものがありますが、禅宗ではこの「獅子」は「人」であると言い切っておりますもんな、流石です。

今ひょこっと思い出したんですが「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」の世界一短い手紙を書いた武将として有名な徳川家康公の重臣、本多作左衛門重次(鬼の作左)というお方がおられましてね。この手紙は長篠の戦の際、陣中より妻に送った手紙なんだそうですがね。その内容は「尊敬する我妻よ、火の扱いには気をつけよ。長男仙千代を大切にせよ。馬の手入れを頼む」でして、要点を簡潔にまとめた手紙として手本とされております。だけど紹介したいのはこの手紙の言葉じゃなく「心にあるものが表に現れる。その最たるものが言葉遣いである」の方。確かに、心にあるから出てくるんだもんね、言葉も、態度も。

今一つは、ひざの手術をされた檀家(女性)さんの話でしてな。その手術を執刀されたドクターは、名医と名高い先生なんだそうですがね。ところが術後の治療を受けていた時のこと、そのドクターと看護師さんのやりとりを聞いて、少々幻滅したんですよね、と。話はこうである。看護師の方がドクターが忙しいので気を利かせて、炎症を起こしている肌の弱い患者さんの絆創膏を別のものに変えて処方したところ、それでも炎症を起こすので指示を仰いだらそのドクターがなんと「君が支持してやったんだから、君が最後まで責任をもって治してやれ、私は知らん」とつっけんどんに。この言葉を聞いたとき「いやいや、ちょっと待ってよ。何、この病院(ドクター)は。患者さんの治療が最優先じゃないんかい。ドクターと看護師さんのいざこざは患者には関係ない話やろ。この先生、ポリシーを貫くところをはき違えてるんじゃないのか。私もこのドクターの気分を害したら、または、私の治療の時、先生と看護師さんとの間でトラブルがあったら、私も治療拒否をされるんかいな、と不信を抱いたんですよね。名医が人格者とは限らないですね。だけどこの先生、職を辞したら晩年、みんな離れていって、誰も寄り付かなくなるんじゃないのかな、いらんことだけど」と。

まあ、しかし、残念ながら昨今はこんな話がよく耳に入ってきますよな。病院だけに限らず、会社も、学校も、老人介護関係も、もちろん宗教界でも。「診てやっとる、払ってやっとる、教えてやっとる、世話してやっとる、拝んでやっとる」とね。確かに実際はそうなんだけどくさ、「いったいこの場は何を中心に考え、誰のために動かんとあかんのか」を確認していかんと、本末転倒して本来やるべき仕事を見失うことになりまっせ。

天徳山 金剛寺

ようこそ、中山身語正宗 天徳山 金剛寺のホームページへ。 当寺では、毎月のお参りのほかに、年に数回の大法要も行っております。 住職による法話も毎月のお参りの際に開催しております。 住職(山本英照)の著書「重いけど生きられる~小さなお寺の法話集~」発売中。