平成29年1月法話 天が与えてくれる生きる為の道具
新年、明けましておめでとうございます。本年も拙いお話しで申し訳ございませんが、法話は読まれるお方の機根によってどうとでも化けますので、宜しくお付き合いのほどを。
さて、正月の12日と言えば、金剛寺初代住職さんの祥月命日でございましてね。思えば早いもんで、今年でもう53回忌となりますかな。やはり初代といえば思い出されるのは、「世相の流れを見て、法を説け」と先代(父)に言い残された言葉が一番印象深いですかな。先月の法話でも話しましたが、昨今では、これからの世を背負って立つ子供たちの目や耳に入ってくる情報(テレビ、新聞、雑誌など)と言えばくさ、世の一部の大人たちに限ってですがね、生んで育ててもらったという、絶対に忘れちゃならん恩義をないがしろにしたものが何と多いことや。所謂、大事にせにゃならんものを大事にしない時代(墓捨て、親捨て、子捨てなど)。決して忘れちゃならんものを簡単に忘れてしまう時代(受けた恩など)。いとも簡単に、無差別に、人を殺めてしまう、そういう人間を世の中全体の「命を軽んずる」行いが育てているという実態を、真剣に考えなきゃならん時代に入ってきているように思えてならないんですがね。他人事だと思わず、一人一人が考え方を正していかなきゃ、間違いなく、うじゃうじゃ出てきまっせ、そういう類の人間が、ですな。わが子、わが孫だけは、そういう人間と遭遇、あるいはそういう人間にならないという保証はどこにもないよね。
考えたらくさ、当然私も含めてですが、人間とは本当に得手勝手な生き物でんな。例えば、この世に生まれてきた時には、あれだけみんなに喜ばれて迎えられた人が、亡くなって逝く時には、いらん者扱いされて捨てられるように、ね。まあ、中には、自業自得じゃ、といわれる人もおられるでしょうがね。しかし、全く世の中に尽くしてないという人は、一人たりともおられんと思うんですがね。先日も、先月の法話に書いたのと同じような家族の葬式がありましてな。10年以上も音信不通であった父親が、心筋梗塞で突然亡くなったと会社の同僚の方から息子さんの方にご連絡が。子供のころからこれといってよか思い出のない父親、「家族葬は感心出来んが、このケースにおいてはな、・・・さあ、どうするね」と尋ねると、しばらく考えたのち息子さんが、「ご住職、一人暮らしだった父を同僚の方が、会社に出勤して来ないからと心配して家まで迎えに行き、倒れている父を発見。警察や病院や斎場の手配まで・・・。親父と私の家族事情はともかく、お世話になった会社の方々に対し、息子として不義理は出来ませんので、お通夜、告別式、と通常通り執り行ってくださいませんか」と。親がなくても子は育つ、とはよく言ったもんですな。しかし、この葬式においても先月法話の故人の時と同様、会葬者はなんと300人でっせ。家族に見せていた姿と、世間での姿は違っていたんだ、と遺族を驚かしておりましたな。葬式はその人がどんな生き方をしてきたかを一発で表しますからな。故人からお世話になった方々は、決して不義理はしませんからね。まあ、考えたらこのお二人(故人)、最期の最後は幸せだったかな。疎遠になっていた子供たちを含め、多くの方々に「お疲れさま」と送られ、また、家族葬にしなかったおかげで、子供たちが想像もしていなかった世の中での親の姿を知らせることも出来たしね。欲を言えばくさ、返す返すも生きているうちに家族の団欒が取り戻せておれば、と残念には思うけどね。まあ、子供たちの長年にわたるこだわりが取れただけでも、「よし」とするかな。「これからしっかりと親を供養していきます」と言ってくれているしね。しかし、しかしですばい。人は誰しも今現在の自分はどんな状況下、つまり、親の離婚問題、友人関係トラブル、会社における理不尽な要求、社会情勢等など、どう考えても巻き込まれた、と思われるものであったとしてもくさ、その場面、場面において自分が判断を下し決定し、作り上げてきたものでっしゃろ。祖父母に聞いた話では、大正、昭和初期時代においての結婚なんかは、式の当日に相手の顔を初めて見るなんてことはざらにあったとのこと。「断れる状況ではなかったんだ」、であったとしても、それを受け入れたのは自分ですもんな。不平不満は第三者に向けるものではなく、自分の方に向けにゃ、ね。またこの先も判断を間違って10年後、今現在と同じ不平不満を第三者に責任転嫁しながら生きる自分がそこにいる、なんてことにならんようにせにゃ、ですな。ところで先日ですな、盲目のピアニストで有名な辻井伸行さんの特集が、テレビであっておるのを見ました。なんと2歳半の時、お母さんの歌声に合わせて即興でピアノが弾けていたそうですな。この方に限らず、心身障害を抱えて生きている方々を見ておりますと、間違いなく天は、この世で生きていける道具を万人に与えてくれているようでんな。ただし、「縁に出会ったなら、気づいて、活かせよ」との話しみたいですがね。辻井伸行さんにおいては生まれながらの盲目にて、その生きるための道具を幼児期に、お母さんが気づいて見つけてくれたみたいですけどね。その方を囲む人たちの目配り、気配りもその縁(道具)を活かす重要な要素になっているようですね。天のご加護といわれるものは全てそうじゃないのかな。努力なしに得られるもんは何一つないもんね。
話を元に戻しますが、いやあ、人間とは本当に得手勝手な生き物ですな。自分の生活態度が原因で、人からお金を借りることになった時、泣きながら頭を下げて感謝したにもかかわらず、返す時には恩人に対し、まるで鬼でも見るかのように、「返してやる。有り難く受け取れ」とでも言わんばかりの態度で、ね。また、あれだけみんなに祝福されながら愛し合って結婚した二人が、たった数年で泥沼の離婚劇ですばい。わずかな時の流れの中で、いったいこの人に何があったんでしょうかいな。自分が必要とするときには、形振り構わず、人から奪い取ってまでも我が物にしたものを。必要がなくなった途端に負担となり、いともあっさりと捨ててしまう。わが親も、わが子も、友人も、ペットも。類は類を呼びますからな、恐らく同じ類の人間がその人の周りに集まっておりまっせ。いずれは同じ目に、ね。
さて遭遇と言えば昨年はもう一つ、9月の台風18号の影響によってもたらされた水害は悲惨だったですね。東北大震災時もしかり、事故という事故は全てにおいて言えるでしょうが、年が明けておめでた気分の正月にその年の9月、自分の家が災害で流されるなんて、誰が想像出来たでしょうかね。茨城難の数日後に、今度は気の毒にも宮城県にて河川が氾濫しましたね。「まさかニュースで見ていた水害状況を、今度は自分たちが受けるなんて夢にも思っていなかった」と、インタビューで話されていた被災者の方の声は印象的でしたね。人はそれぞれ、その心境の度合いには大小はあっても、基本は「対岸の火事」かな。明日の命の保証なんて、誰一人として約束されていないのに、自分だけは死なんと思っちょる。室町時代の禅僧一休さんが、「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と浮かれる衆生に、「新年を迎えるたびに、死に向かって近づいていることを、あんたさんはわかっちょるんかいな」と警鐘を鳴らす嫌味な言葉を吐かれたのも納得出来きますかな。
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