平成28年12月分法話  旅立って逝く日を迎えて

 先日、夜中の2時頃だったですかな、「父が(檀家、56歳、死因脳内出血)が亡くなりましたので、枕経をお願いします」との電話が入ってまいりました。だいたいこの時間に掛かってくる電話といえばくさ、この手の知らせが大半ですがね。中には昼間の嫁姑戦争で腹の虫がおさまらん婆ちゃんが人の迷惑なんぞ顧みず「ちょっとお坊さん、話ば聞いてくれんかん」と、朝まで愚痴を言い続けるという非常におもろい類もたまにはありますがね。

すぐに準備を整えて斎場の方へ出向くと、そこには白けた顔の子供達が。「親が亡くなっとるのに、なんじゃそりゃ」と思われるでしょうが、そんな顔をするにはするだけの理由というものがありましてな。実はこのお父さん、育児放棄というか、子供に愛情がないというか、自分勝手な人生をとことん貫いたお方でしてね。じゃ、誰がこの子らを育てたかというと、母親は離婚されていなかったので、当然祖父母ということになりますわな。例えばこの子らが小さい頃、その一人が国指定の難病で入退院を繰り返しておるにもかかわらず、一度たりとも病院へ見舞に行ったことがないとかですな。そんな状態が20年も続いたら、そりゃそんな白けた顔にもなりますわな。それでも枕経が終わって、この状態のままピリオドを打たせたらあかんと思った私は、「なあ、君たちな。亡くなって逝った人はもうこだわりはなかばい。残った人間がこだわっているだけ。喧嘩(頭にくる)相手はもうこの世にいないんだから、いつまでも腹を立ててたら自分の心が切なくなるだけだぞ」と。「・・・(子供たち無言)」。『んんっ、こりゃ、困った』と。そこでさらに私は、「金剛寺のくさ、檀家さんはそんなことはさせないからおらっしゃれんが、話し相手をしてくれるお寺という噂を聞いて愚痴を言いに来る人の中には、長年の間、ご主人に散々苦労を背負わされてきたという奥さんがいて、お葬式だけは出してやりましたと。だけど年忌法要までは追う気はないので、30年以上もの間全くほったらかしています、という人がいてな。そんな人に限って30年たった今でも、その当時の恨みを持ち続けたままでね。だけど、そんな話をわざわざ愚痴りに来らっしゃるということはくさ『これでいいんだろうか』と、どこか心に引っかかるところがあるからじゃないのかな。『ええい、くそったれ』と思いながらでも、仕方がないと3回忌、7回忌、13回忌、25回忌と勤めてあげている人は、いつしか多くの恨みつらみが次第に薄れて、不思議とよか思い出だけしか残ってないみたいだよ。善を追いかけさせる(追善供養)ことによって、お互いが知らず知らずのうちに仏の心になっていっているということなんかもしれんね」と。じっくりと時間をかけてここまで話をしたんだが、一向に子供たちの顔つきは変わらず、グサッと一言ですばい。「今日まで、私たちがどういう思いで生きてきたかを、住職さんは一部始終を知ってるじゃないですか。目を閉じたからと言って、許せるものと、許せんものがあります」と。・・・んんんっ、事情は大方は知っているとはいえ、結局私は一緒には暮らしてきてない第三者ですからな。この子たちの本当の苦しみは到底理解は出来てない。まあ、それでも、このままではこの子たちが不憫ですからな。「んんんっ、・・よし。じゃ、こうしよう。君たちな、人は目を閉じて7時間前後は耳が聞こえてるということが実証されているのを知ってるかい。この時間内だったら呼びかければその都度、脳波が反応するということなんだよな。ということはたい、私と君たちとのこの会話だが、今、お父さんには聞こえているということになるわな。どんな人間でも、完全に悪人なんて人はいないからね。こんな会話、耳元で聞かされたらくさ、自業自得とはいえ、さぞかし辛いだろうよ。『そこまで俺はわが子を追い込んでいたのか』とね。じゃ、どうするかだが。お互いのわだかまりをスキッとさせるために、あと耳が聞こえんことなるまで計算だと5時間はある。今までの溜まりに溜まった不平不満や文句を、洗いざらい耳元でぶちまけたれ。生前は君たちの言うことなど聞く耳持たなかったお父さんでも、今は仏さんじゃ、今なら聞く耳があるだろうからね。言われたお父さんも楽になるだろうし、言った君たちも楽になるだろ。それでスパッとこだわり捨ててこの話は終わりじゃ、綺麗さっぱり許してやれ。人は目を閉じて35日目に閻魔大王に会うといわれているが、もし本当に会うとしたら、好き放題生きてきたお父さんだが、臨終時にあれだけわが子から怒られたんだ、もう大概反省しただろ、それに免じて人間界で仕出かしてきたことの罪を少しは控除してやろうかいな、と大王から温情が掛かるかもしれんだろ。さあ、お互いのためだ、やったりなされ」と。

葬儀の日の子供たちの顔は、何となく晴れ晴れとしておりましたな。この父親ですが、家庭においては確かに褒められた親ではなかったようですが、しかし、葬儀の会葬者はなんと300人超。世の中にあっては家庭の姿とは別人であられたようですな。度々言いますが、葬儀はその人の生き様を一発で表します。子供たちもこの会葬者の数を見て、改めて父親の別の顔を知ることが出来たんじゃないのかな。枕経、通夜、葬儀は、感謝の心を形として表したもの。それぞれに意味があり、それぞれに気づかされることが多々ありますよな。

しかし、現在の世相の有り様を眺めてみたとき、人が死んだら24時間病院に置き、そのまま火葬場に連れていき、お経もあげずに遺骨にするという直葬、中には遺骨を拾わずに捨てて帰る子供までも。あなた方とはお付き合いするつもりはございませんので、と世間に向かって公表しているに同じ家族葬が頻繁に。親が死んだことを隠し、そのまま親の年金を貰い続ける不届き者。親を老人ホームや老人病院に入れたまま、面会にも行かずに死ぬまでほったらかす親不孝者。何十万基ものお墓がいらん物扱いされて捨てられている状況、などなど。テレビや新聞などから流れてくる情報は、このような命の尊厳を脅かすものばかり。世の子供達は、そんな環境の中で成長していっておるんですもんな。私は講演会のたびに、「子供は親が育てただけしか育ってませんよ」と申し上げてきておりますが、もはや親の責任だけではすまない状況になってきておるに間違いはありません。昨年の夏に40代後半の男性が、中学生2人を殺害しましたよね。この事件が浮彫りになるにつれ、現代の世相が作り(育て)上げた「化け物(人間)」のような気がしてならないんですがね。この流れを改めない以上は、こうした人間が次から次に生まれてくる世の中になるんじゃないのかな。たまたま居合わせたがために殺害された中学生男女。さて、わが子、わが孫は、無関係かいな。

この葬儀後、家族葬にして親を送られたという弔問客の方々が、「どうしたら、取り返しがききますか」と相談に。「その節は訳あって家族葬に致しましたが、この度故人の年忌法要を迎えるに当たり、足を運んでいただきますれば故人の喜びはいかばかりかと。当家の得手勝手な都合ばかり申し上げますことをお許し下さい、との内容で方々にご通知を出されてみては如何ですかな。故人に世話になった方々が胸のつかえを落としていただけますよ」と。  

さあ、今年もあとわずかにて、やっておかなきゃならんものは、お早めに。 再会

天徳山 金剛寺

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