平成29年7月分 金剛寺住職による150字短文法話
「坊主の説法と結婚式のスピーチは短いほど有難い」と。但し、その短文法話の中には必ず含み言葉が。講演会でよく次の様な質問を。「法話によって参加者全員が抱える問題を網羅することが出来ますか」と。対し私は「法話は話し手より聞き手の受け取りの方が大事。法話は数学で言うところの『公式』に同じ。その話に自信が抱える問題を当てはめ、自らが解決の糸口を導き出していく為の道具にするもの。これは法話に限らず、人と人との関係全てにおいて言える事にて」と説明を。その様に理解して頂きますれば、この短文法話も何かのお役に。
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0001 「親というは、本当に有難いもんですな」
わが寺縁の仏壇屋店長は母一人子一人で15歳の時熊本から北九州へ丁稚奉公に。これからは親孝行が、と毎月お小遣いを送金。その度に手作りの野菜が北九州へ。50年後その母が旅立つ時、店長を病院に呼ぶ付け手渡したは通帳の束。なんと毎月記載されたお小遣いの総額、1500万円。親というは有難いもんですな。
0002 「信仰というは特別な物じゃない。特別な物にしている者がいるだけ」
斎藤道三家臣から山梨県武田家菩提寺、恵林寺の住職になった快川は信長公に攻められ数百の僧侶と共に焼死。その時の時世「安禅は必ずしも山水を選ばず。心頭滅却すれば火自ずから涼し」は有名。同時代謙信公は欲深い家臣に嫌気がさし比叡山へ。家老に「百姓の手の中にも、赤子の泣き声の中にも仏は」と諫められ帰還。
0003 「少子化問題は、長年の自業自得が原因の一つ」
日本は昭和23年に中絶を容認する法律が施行。昭和64年までの40年間に葬られた命はなんと7000万人とも。もしこの子たちが産まれていたら少子化問題は如何に。自業自得の世界が今この国に。思えばわが身は生まれさせてもらっておりながら、わが子は闇から闇に。命を粗末にする者は、自分の人生も粗末に。
0004 「たかが葬式。されど葬式。会葬者の目はシビアにて」
葬式の会葬者の中には僅かであろうが世間体を考え、仕方なく忖度で来ている方々も。誰しも身に覚えがあるはず。が、その中には子供が親を送る様を真剣に見つめている方々も。その方々が故人亡き後、遺族の支えになってくれる人達にて。その人達が「なんだ、この親の送り方は」と心が離れていく様な葬式をしたらあかん。
0005 「見習うべきは、夫婦の絆かな」
大分県に仲睦まじい老夫婦の蒲鉾屋が。当時店主は92歳で現役。ある日奥様が体調を崩し入院。毎日早暁3時に起床、仕事を済ませ昼から病院へ。労いの声をかけると「この歳まで一緒におれただけでも。今はご飯を食べさせに病院へ会いに行くのが何よりの楽しみじゃ」と。当時この姿を見てどれ程の人が反省させられたか。
0006 「不安の心は、疑う事から産まれてくる」
信州長野の善光寺には本堂下に『戒壇院』という目を閉じても開いても漆黒の闇なる回廊が。そこを歩く時人はあまりの恐怖に少しの物音でも大騒ぎ。「人は疑う事により不安の心が沸き起こるもの。人は目が見えている様で実は全く見えてはいない」を悟れよ、が戒壇院の存在意義。されば、人は如何なる心構えで人生を。
0007 「やっぱり女性は、生き物が違う。一枚も二枚も上手、だね」
社員旅行で鹿児島の長崎鼻に行ったと話す爺様に「あんた馬鹿か。長崎県にあるから長崎鼻というんじゃ」の婆様の吐き捨てに怒り狂って外へ。数時間後勝ち誇った顔で買ってきた地図を開き「見ろ、鹿児島じゃろうが」と。が、婆様はその地図を見ようともせず「あんたがそう思うなら、思えばいい」と。さすがの爺様も絶句。
0008 「一流と言われるプロの見分け方」
奈良の国宝室生寺五重塔が台風で大木が倒れ補修を。が、問題は周囲の杉並木。景観を守る為に残すか、災害防止の為に倒すか。結局景観維持で話が決まり棟梁選出を。その棟梁が全国から名うての匠を募集。その選出方法は「道具箱だけ送れ」と。ノミ、カンナ等の手入れ状態を見れば腕がわかると。確かな判断材料、だね。
0009 「嫁姑問題は万国共通永遠の課題にて」
嫁姑問題は永遠のテーマ。噛み合わんは当然。嫁さんは現在に、姑さんは過去に生きている。加えて息子の奪い合い。が、昔の姑さんは炊事、洗濯、裁縫、子育てなど何もかんも出来た上での叱咤。自分は出来もせんで物言うなら嫁さんも文句のつけようが。が、その時は腹が立っても将来的には必ず役に。嫁もいずれは姑。
0010 「人を育てるには、我慢とひと手間は必要不可欠にて」
40年前、私が16歳の時、本山の管長様が法要導師でお寺に。その時私に「1000人の前で法話をしても理解してくれるは約1割。残り9割にまた同じ法話を。が、理解するはやはり約1割。坊主の仕事はこの繰り返し。裏切られても裏切られても、人を裏切らず、見捨てず、我慢の一途だよ」と。この言葉が今も私の耳に。
0011 「信仰は種明かしのある手品とは違いまっせ」
釈尊は「生老病死の四苦八苦は逃れられん」ときっぱり。なのに信者は「死にたくない」と無理難題を。いやいや、釈尊も、達磨も、各宗祖も皆死んだがね。一人でも不老長寿がいるならその願いも。人は容易い問題はさっさと片付けるが、面倒な問題は後回しに。仏に祈願したとて問題を受け入れ、動かにゃ、何の解決も。
0012 「固定観念を持つ者は、新たな発想は産まれ難い」
人は固定観念を持たねば、新たな発想が産まれる。アダムとイブの時代から林檎は木から。にもかかわらず、ニュートンだけが万有引力を。柳の枝に蛙が飛びつく様を見て人は「無理だ」笑ったが、小野道風は「励み」と悟った。道歌の「浜までは海女も蓑着る時雨かな」も、どうせ濡れる、ではなく、プロとしての心構えかと。
0013 「もしかしたら、前世って、あるかもしれんね」
若者から「前世ってあるか」と問われ「さあね。だけどそこが命の原点なら、理不尽と思えるこの差は納得出来んよな。産まれた途端目の前が戦争の国、平和の国。情深き親、虐待の親。五体満足、不満足、と。「人は自分がしたことだけが結果」がこの世の習い。そう考えると、前世でしてきたことにより与えられた環境かな、と。
0014 「人間死んだら終わりよ、じゃなかばい」
家康、秀忠、家光の三代に仕えた天台僧天海が100歳の時、柿を食べてその種を城内に埋めた。家光が「和尚は桃栗三年柿八年を知らんのか。実がなっても食べられませんぞ」と。対し天海が「この柿もかつてどなたかが。拙僧は食べられずとものちの世の誰かが。そんな考えで政が」と一喝。後に108歳で食べてあの世に。
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