【人は一代、名は末代、にて】

「哀しい哉(かな)、哀しい哉、復(また)哀しい哉。哀れが中の哀れなり。悲しい哉(かな)、悲しい哉、重ねて悲しい哉。悲しみが中の悲しみなり」(亡弟子智泉が為の達嚫の文)。  本当に悲しかったんだろうな、と思われるこの文は、お大師さん(空海)が苦労の中にあった青年時代(20代)、山林修行に明け暮れていた「私度僧(しどそう)」(正式に僧侶として認められていない僧)時代に、最初のお弟子さんとして共をされた実の姉の息子(当時14歳)、智泉(ちせん)さんが37才の若さで亡くなられた時に、お大師さんには珍しく落胆に満ちた表現で残されたとされる有名な声だそうです。いかに「生き仏」といわれるお方でも「人間空海」ですもんね。あのお釈迦さんでさえ、お弟子さんが亡くなられた時には涙を見せられたとの史実が残っておるくらいですもんな。他にこんな話もありますよ。ある禅宗の高僧が最愛の人を亡くされて、ひどく落胆しておる姿を情けなく思ったお弟子さんが「何ということですか」と指摘した時、「悲しい時に泣くな、と誰が言ったか」と一喝。そのとおりだわね。お大師さんも、お釈迦さんも、この禅宗の高僧さんも、所謂、諸行無常の理なんて百も承知だわさ。喜怒哀楽を素直に受け入れることもまた、こだわりなき生き方だわね。いかなる時代においても、いかにスーパーマンといわれる人間であろうと、その人を支持し支えてくれる人がいなければ、決して力を発揮することなど出来ませんもんな。担いでくれる人がいなければ、神輿は動きませんからね。お大師さんにとっては、この落胆ぶりからみても、わが甥であり、お弟子さんである智泉さんの存在は、特別なものであったんでしょうな。考えたらくさ、智泉さんは幸せものだよね。その誠意ある生き方によるものだとしてもですよ、あのお大師さんに、これだけ認めてもらっておったんですからな。まあ、しかし、人を認めて一番救われるのは自分自身だからね。そんなお方に先立たれたお大師さんの胸中は、ですな。ちなみに、人を許して一番楽になるのも自分自身、許された人じゃないもんね。「認めない、許さない」という心を持ち続けるというのは、結構辛かですもんな。 そんなこんなで苦労されておられる折り、運よく密教に関心を持つ嵯峨天皇が即位をされ、その信頼を得て紀伊の国、高野に寺院建設を始められたのが、お大師さん44才(817年)のころだったそうな。いやいや、「運よく」という言い方はあかん、誤解を産みますばい。明治時代の哲学者、教育者であった森信三さんが、「出逢う人には必ず出逢うようになっとる。それも一瞬早くもなく、一瞬遅くもなし」と言われておりますもんな。だけんどくさ、その時にそれなりの力をつけておらなんだら、どんな素晴らしい縁が待っていようと認めてもらえることはないですわね。「種は蒔かにゃ芽は出らん。見当違いの種蒔きも良か芽は出らん」とは、よく言われる言葉ですが、それよりも何よりも、種を持っておらんことには蒔くことも出来ませんよね。人は裸で生まれてきたんだから、誰しも初めは何の種も持っとらん。与えられた環境を嫌わずに、親の七光の種を素直に受けてそれを活かすか、良き師匠(その道に明るい人)の下についてそのおこぼれの種を、くだらんプライドを捨てて貰い受けそれを活かすか、何にせよですたい。種の元をくれる人との縁がなけりゃ、子供といわれる立場の人は、ですな。なれば、順送りに種を貰い受けてきた親側の有り様も大事になってきますよね。親子関係といえば、実の親子はもとより、師匠と弟子、先生と生徒、社長と社員など色んな形がありますが、子供が育っておるか否かは、親が面倒くさがらずにひと手間をかけておるかどうかに掛かっておりますもんな。間違いなく親が楽をした分だけ、子供は育っておりませんもんね。食卓に並ぶ料理一つを取ってみてもくさ、インスタント物や冷凍食品を買って来て「チン」、「はい」では、ですな。手間暇かけた料理に一品でも多く遭遇した子供たちは間違いなく、感受性豊かな人間に育っておりますもんね。人にとっては味覚,視覚、聴覚の作用はとても大事ですばい。胃袋を掴まにゃならんのは、子供とて同じ、かな。 さて、話を戻しましょうかね。当時お大師さんは教王護国寺(東寺)の仕事が忙しかったらしく、高野山は全てお弟子さんらに任せておられたそうで、その中心が智泉さんであられたとのこと。そんな折り、天長2年(825年)、お大師さん52才の2月、「智泉倒れる」の一報が京都にもたらされたそうな。長年の無理がたたったんでしょうな。その一報を受けた時のお大師さんの落胆する素直なお気持ちが、「哀しいかな、悲しいかな、・・重ねて悲しいかな・・・」の声に滲み出ておりますよね。人が亡くなって逝く順番というは、それぞれ人には寿命があるから思い通りにはいかんのですが、古(いにしえ)の昔から何が幸せって「祖父母死、父母死、子死、孫死」、この順番で逝くが何より幸せですもんね。この順番が狂うほど辛いことはないもんね。師匠と弟子の関係といえども、これに同じだよね。  高野山伽藍の荘厳、その建設開始から15年、智泉さん他界から7年後、ようやくお大師さんが最初の法要を営むことが出来たのは、天長9年(832年)、ご入定なされる3年前のこと。その当初の流れをくむ法要が、現在10月に行われております「萬燈会(まんとうえ)」といわれるものだそうで、命あるもの全ての幸福を祈る、法会だそうですな。この法要には私も何度かご縁に会わせてもらっておりますが、比較的お若い僧侶さん達が、どうも後継者の方々だそうですが、奥ノ院燈籠堂内陣にて理趣経を、一段、一段の締めの末尾語を通常通りには声を延ばさず、ピタッと止める口調でお唱えをしながら、時計とは逆回りに歩いて法要を営んでいく。この読経の口調がくさ、なんとまあ、切れがあっていいんだわ。その奥ノ院浄域は、樹齢400年を越える杉木立が群をなしておるため、周辺は日中でさえも薄暗く、お堂の明かりを頼りとしてだけの夜の法要光景は、そりゃもうくさ、神秘の世界を醸し出しておりまして、勤められておられる方々がお若いこともあってか、荘厳の中にも力強さを感じるものとなっております。やっぱ、1200年の歴史というは、重い、重い。 世に「人は一代、名は末代」という言葉がありますが、1200年もの間持続できる基盤を築きあげた当初の方々のご苦労には、計りしれぬものがあるでしょうな。当然、受け継いで来られた方々のご苦労も並大抵ではないでしょうがね。恐らくいつの世でも、やる気のある人間を、やる気のない人間が潰しにかかる行為はあるでしょうからね。「今が良ければそれでいい、いらんことすな」と自分の立場を誇示するためにね。もしその悪い意味での保守側が勝れば、時にはそのものの歴史に終止符を打たれることとなりかねない。勿体ない、実に勿体ないこととは思いますが、・・んっ、ね、それも定めと言えば定めかな。でも、まあ、やっと神輿に担げる人物が出てきたんなら、その人をしっかり支えていかんとあかんですよな。特にこの国の政治の状況なんかを見ておりますと、それを感じることが非常に多い。自分の考えが正しいと貫いているつもりが、実はこの国そのものの足を引っ張っておるんじゃないかいな、とね。見極めを間違えたらあかん。皆が自分のこととして真剣に考えんと。

天徳山 金剛寺

ようこそ、中山身語正宗 天徳山 金剛寺のホームページへ。 当寺では、毎月のお参りのほかに、年に数回の大法要も行っております。 住職による法話も毎月のお参りの際に開催しております。 住職(山本英照)の著書「重いけど生きられる~小さなお寺の法話集~」発売中。