【何かを欲しいと思ったら、何かを捨てよ】

 今月は先月に引き続きまして、高野山のお話をばさせていただきますね。昨年はご存じの通り高野山開創1200年の記念の年でございまして、私も檀家さんらを50人ほど連れて参拝させていただきました。参拝日の5月19日は記念大祭最終日の2日前で、比叡山延暦寺の法要が金堂の方で取り行われました。ちなみに今から456年前、永禄3年のこの日は、あの織田信長公と今川義元公で有名な、桶狭間(田楽狭間)の戦いがあった日でもありまして、まあ、余談ですが。さて、午後2時からの法要に際し、ご導師のご入道をお待ちしておりますと、そこへ菊の紋の入った黒塗りの車がゆっくりと到着し、動きのない状態のまま5分ほどが過ぎた後でしたかね、1台の車いすが後部座席の横に用意をされ、頭から帽子(僧侶が首から掛けている白色のマフラーみたいなもの)を被られた小柄な老僧が、お弟子さんらに担がれて車いすに。放送で流れてきた式次第の説明で、そのお方が天台座主だと知り大変驚きました。まさか座主が直々におみえになられるとは、ですな。私達下々の者は、特に私のような他宗のものにとっては、一生に一度お会い出来るかどうかのお方ですからね。 


  座主は車いすに乗られたまま四方からお弟子さんらに担がれ、私達の目の前を金堂の中へと入られて行かれました。法要次第は最初から最期まで声明(仏を讃えるもの)が唱えられ、通常の法要とは一風違ったものとなっており、何か新鮮なものを感じましたな。ただ一つ感心させられたのは、これはあくまでも、あくまでもですよ、私個人の見解ですけどね。ごくごく普通に考えたらですよ、天台座主にわざわざご足労をいただいとるんですばい、受け入れ側としては当然「わが宗は、こんなんですばい」と、参拝人数を猫も杓子も無理矢理集めてでも、先方さんに威勢を見せつけたいのが人情でっしゃろ。ところがですたい。「えっ、こんなもの」ってなもんです。前々から真言宗の法要時には常に感じていたことなんですが、「来るものは拒まず、去る者は追わず、功徳が欲しけりゃ足を運んでおいでなっせ。法要日時は前もって知らせておりますばい。心を向けない人を追いかけてまでは功徳を運んでは行きまっせんばい」を徹底されておられるんだろうなと。通常における私達の衣食住の買い物と同じことですばいな。自らがスーパーや市場に足を運んで行かんことには、絶対に物は買えんでしょ。どうしても必要なら足を運んで行かんかい、ってことでしょ。天台宗側もその荘厳(僧侶の参列の姿)を見る限りはですよ、「私どもは高野山1200年大祭に際し、仏さま方に礼(慶び)を尽くしに来させていただいただけ、他の諸々の事は意に関してはおりません」との姿と、私にはそんな風に目に映りましたな。国民の宗教離れが騒がれておる昨今において、本筋を曲げない信仰のあるべき姿を、日本を代表するこの両宗はこの大祭において、全国に見せつけられたんではないか、と我が勝手に想像させていただきました。 


さて、宗教離れといえばですな、以前ある他宗の高僧さんとお話をする機会があり、その折りこんなことを言われておりました。「非常に残念なことですが、わが宗内において、この人は、といえる住職さんは、さて、何割ほどおられるかな。・・・その住職さん方がわが宗を支えてくれておられますもんな」と。講演会をさせてもらった後に、参加者からの質疑相談応答の時間が取られる事が結構に多いのですが、その中でたまにですが、「金剛寺の檀家にしていただくことは出来ませんか」と頼まれることがあります。まあ、受けることはないですな。丁重にご説明をしてお断りをします。私どもの宗教の世界というは、やはり人が集まらないと成り立たない組織でしてね。人を集めるためにはどうしても、他宗との違いを示していかなくてはならず、その示していく中では情けない話ですが、どうしても他宗を攻撃する文言が含まれることが多くなってくる傾向があるんですよな。だけんどくさ、1つの宗団だけでどうやって1億人もの人たちのお世話をすることが出来まっしょうかいな。与えられた時間は、人は平等に1日24時間、実質実労40年でっせ。自分一人だけで、一末寺だけで出来ることなんて、たがが知れとりまっせ。みんなで手を取り合って、この国の将来を支えていく役目を果たしていかんことにはですな。しかし、一般の皆さんの切実な心変わりの理由を聞いておりますと、いやはや、わが宗も含め、どの宗派もその評判はあまりよろしくないですな。特に住職の資質の問題が信仰離れを引き起こしている最たる要因の一つになっているように見受けられます。これはあくまでも、私の狭い交友範疇内での理解ですけどね。まあ、ね。人は自分に都合のいいように文句ごとを言うからですな。でもですばい。話半分として聞いても、お寺側としては考慮せにゃならん問題であることに間違いはないですな。それでも私はその檀家希望者に「今の今までお世話になってきた菩提寺を裏切ることなど、決してやってはなりません。移り変わった先の住職のお寺が今は良くても、もしその後継者が将来において残念な方向に向かったら、また他のお寺を渡り歩くつもりですか。今のご住職をしっかり盛り立てて、素晴らしいお寺に仕上げていくのも檀家さん方のお役目だと私は思いますよ」と。お寺選びに限らず、いつの時代も人というは「あっちの水は甘いぞ」で動く傾向は多いですもんな。「努力をせんで得られるもんなら、それに越したことはない」とね。冷凍食品買ってきて、「チン」、「ハイ」と食卓を飾るのもそれに同じかな。深い味はいらないんだろうね、適当に美味しければ、ね。何でもくさ、ひと手間を掛けることによって深みが出てくるんだけどな。信仰にこの「ひと手間いらず」を求めて来る人が多数を占めてきたことも、信仰離れとなってきた一つの要因ではないでしょうかな。所謂、「即席成就」ですばい。「何、努力をせいだと、時期を待てだと、待てん。わざわざやって来て、高いお布施を出して願いを掛けたんだから、今すぐ功徳を渡さんかい」とね。ミンチから下味つけて捏ねあげて作っていかんでも、スーパーに行けば、「チン商品」が売ってますもんな。完成されたものばかり目に入ってくるからね、苦労せんでも。・・・難しい世の中だわ。


 昨年5月、高野山開創1200年大祭に足を運ばせていただいた折り、連れて行った檀家さん方に、「物見遊山で参拝せず、何かを気づかせてもらうご縁にせんとあかんよ」と。考えてみたら、先月の法話でも話しましたが、世の中の仕組みは全てが親子関係、お大師さんにとっては参拝して来る人達は全てがわが子、そのわが子に1200年経った今でもこれだけのものを、ですな。「来てみれば、富士の高嶺も、高野の山も、聞くより低し」という言葉があります。思えばお釈迦さんもお大師さんも、私どもと同じ人間にて、頑張ってきた結果の姿が今に残っておるだけ。なればこの身は、如何なる「頑張り姿」をわが子に残しておるでしょうかいな。人生の流れは皆同じ、例外などはありまっせんばい。ご飯を食べたら「うんこ」に出さんと、お腹一杯で次のご飯は入ってこんでっしゃろ。何かが欲しいと思ったら、何かを捨てんと入ってはこんもんです。そう考えたら、一番捨てなきゃならんもんは、「怠け心」に「欲深い心」かな。私にとってのこの度の「気付き」はここだったようです。

天徳山 金剛寺

ようこそ、中山身語正宗 天徳山 金剛寺のホームページへ。 当寺では、毎月のお参りのほかに、年に数回の大法要も行っております。 住職による法話も毎月のお参りの際に開催しております。 住職(山本英照)の著書「重いけど生きられる~小さなお寺の法話集~」発売中。