平成28年10月 「全国民総幼稚時代」の打開
10月5日はあの達磨大師(インド)のご命日にて。達磨さんと言えばくさ、武者小路実篤はんが「桃栗三年、柿八年、達磨は九年、俺一生」と言わしゃりましたよね。「桃栗、柿や達磨さんはこの年数で実りを。しかし俺が実りを得るには一生精進努力をせにゃならんだろうな」と。ところが昨今は、どうもそんな根性のある人間が少なくなってきたような感じがしましてな。私のところに来らっしゃる若者たちですが、たまたまなのかな、言う事がみんな同じなんですよな。「学生時代にバイトをしていた会社は、みんな和気あいあいで、上司も優しかったのに。ところが、就職した先の会社はみんなピリピリしていて、ちょっとした失敗でも、頭ごなしにどやされる。僕はみんなと仲良く仕事がしたいだけのに、一人でも意地悪をする同僚や先輩がいたら、もうそこにでは働きたくなくなる。学生時代のバイトの頃が懐かしいです」と。んんんっ、落ち込まれてお寺へ相談に来られておりますんでね、それも親御さん同伴にて。言葉を選んで話さにゃならんことは重々わかっておるんですが、まあ、でも、違いますよな。学生時代は会社側も「まだ学生だからね、まあ、片手間でやってるバイトだからね」と、大人が開けて通してくれておっただけでね。卒業して社会人になってから、その和気あいあいの職場(バイト先)に就職して、また同じ対応をしてくれるかといえば、そう甘かないんじゃないのかな。「お前さん、いつまで学生気分でおるつもりかい」と、厳しい言葉を投げかけられるに間違いないと思いますばい。いっぱしの社会人になってまで、5才の子供に飴玉与えて育てるようなことはしませんばい。昨今はそれほど聞かなくなりましたが、故事のことわざに「男は敷居をまたげば、7人の敵あり」という言葉がありましてな。男がいったん外へ出て活動するからには、いつも多くの競争相手がいて、色々と苦労が絶えないもんだよ、という意味でしてね。つまり、世の中というは、国内に100兆円のお金が回っているとしたら、それを奪い取り合うのが経済、和気あいあいなんてな悠長なこと言ってたら、あっという間に吸収されてしまう。周りに10人敵がいたとしても、たったの1人、味方になってくれる人がいれば、「それだけで十分」と思わにゃ、ですな。
人は必ず利潤で動くもの、自分に益があるかどうかが判断基準。かの豊臣秀吉公でさえその晩年、外国に目を向けられたのは「幼い秀頼公を守るためには、大名らの心を繋ぎとめておかねばならん。それには恩賞しかない」が理由。しかし悲しいかな、国内にはもう分け与えることの出来る土地がなかったんですよな。人間の世界は全てが需要と供給の関係。恐怖で支配する時にでも、やはり「窮鼠、猫を噛む」をさせない為には、それなりの贈答品は必要不可欠。何の見返りも必要としないのは、感動を与えられた時だけだもんね、それが人の世界。しかしながら昨今の世相の流れを見ていると、そのドロドロとした社会に馴染めない、精神的に弱い若者が増えてきたことも事実のようで。「ゆとり教育の代償」と、一言で片づけられることも多いようですが、そんな単純な事ではないように思えるんですがな。少し前の時代は、社会人になって仕事が慣れてきたら、なるべく早く結婚して家族を持てと、必ず言われておりましたでしょ。育てられた経験しかないもの、つまり、育てた経験のないものは、人(部下)は育てきらん、と。考えたら、掛け算を知らなきゃ、方程式や、因数分解などは解けないでしょ。平仮名や片仮名、漢字を知らなきゃ、幼児本でさえ読むことが出来ないですもんな。全ての智慧や知識は、経験と体験の中からしか身に付いてきませんからね。子供を育てるというは、ひたすら「我慢」ですからな。親はただひたすら、反抗して来る子供の心を受け止め、時には助言を加えながら、未熟である子供が成長していく姿を、「這えば立て、立てば歩め」と辛抱強く待つしかないんですもんな。まあ、その中に喜びがあるんですけどね。ところが今の時代は、中堅管理職に未婚者が多いためですかな。育てられた経験しかないから、大人として成長出来てないのかな。私の耳に入ってくる職場の状況は、まるで中高生並みのいじめを聞いているようで。人の話を考慮しながら黙って聞くことの出来る人間を「大人」、自分の主張ばかりを押し付けて、人の話を聞くことが出来ない人間を「子供」というんですが、そんな子供のような上司が増えてきたことも事実のようでしてね。だけど子育ての経験がある、なしに係わらず、自分も入社した初めの頃は未熟であったはず。仕事が出来るようになったら、そのことを忘れてしまったのかな。それとも、自分も理不尽にいじめられた時代があったから、その腹いせを今度は部下にぶつけているのかな。部下と上司、両方が見つめなおしていかんとあかんよね。若者は理想ばかりを追い求めんと、まずは一生懸命動く、必ず誰かが見てくれておるから。生前、勘三郎さんが言われておりましたよ、「しっかりとした基礎の型が身についている人がやるから、型破り」と。上司も初めはいらいらくる部下でも、根気強く指導していくうちに数年後、いきなり化けるかもしれまっせんよ。「全国民総幼稚時代」を作らんようにせにゃ、実際の親子関係もそうでっせ。
しかし、しかし、ですばい。何でそんなん簡単に人をいじめるのかな。やる気を見せて頑張ろうとしている人の足を、嫌がらせをして止めたり、自殺にまで追い込んだり、ね。学校関係に講演に伺ったおりには、そこの学校がそんな問題を抱えていなくても、必ず私はこうお尋ねいたします。「まさか先生方、生徒さんに「いじめはいかん」と指導しながら、職員室内で先生同士の間でもって、「いじめ」なんぞがあってはないでしょうな」と。実はよく聞くんですわ、この手の話をですな。また最近ですね、ちょくちょくこんな話も耳にすることが多くなってきたんですが、基本的にこの国の人たちは個人差はあっても、やはり幸せなんでしょうな。他国と比べて、生活全般に心配事がないですもんね。国内で戦争があってるわけでもなし、物資がないわけでもなし、お金さえ出せば手に入らんものなんて何もなか。たまにですが病院でドクターに、「自分で勝手に病気をつくりなさんな」と叱られている人を見かけまっしゃろ。衣食住に関する心配事がないから、いらんところに目を向け始めなさる。先日もくさ、私がこうなったのは、きつね、たぬきの祟りですか、とか。荒神(火の神)さん、水神(水の神)さんの祟りですか、とか。また、そんな人の周りには、類が類を呼ぶんでしょうな、「何か必ず祟ってるんだよ」という方々が寄ってきて、軽々に根拠なきことを浴びせかけなさる。あのですな、人間界における「いじめ」のようなこと、それを神仏がやっているとしたら、尊厳なんてもんあったもんじゃなかですばい。全くもって失礼な話で、神仏を愚弄するのもいい加減にせにゃ、ですな。「罰があたったんじゃなかろうか」と思うんなら、何か思い当たる節でもあるんでっしゃろ。あるんなら第三者に責任を転嫁せんと、まず自分自身を省みられては如何ですかな。まあ、人の判断基準なんてもんは、そうは簡単に改善出来るもんじゃなかですけどね。人はとどのつまり皆例外なく自分を守ろうとする動きをしますからな。なら自分を大事にするように他人のことも大事にしましょう。
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